劉宋との戦での武功
- 呂洛抜は代の人。曾祖の渇侯は昭成帝の時、戸五千を率いて帰国した。祖父の肥は濮陽太守。父の匹知は世祖の時西部長・滎陽公。洛抜は壮勇をもって知られた。高宗の末、平原鎮都将となり、劉彧の徐州刺史・薛安都が誠を帰し援を請うたため、詔により尉元を遣わして衆を率いて救援させ、洛抜は元に随って彭城に入った。彧の将・張永が将の王茂之に兵五千を領させて武原に向かわせその運車を援けようとすると、元は洛抜に騎兵を率いて武原に赴かせこれを撃たせた。二日間格戦し自ら手ずから九人を殺し賊の運車二百余乗・牛二百五十頭を奪った。さらに張永を共撃してこれを大破し、功により成武侯の爵を賜り建義将軍を加えられ、五十六歳で卒した。
- 長子の文祖は顕祖により勲臣の子として竜牧曹奏事中散に補されたが、牧産が繁殖しなかったことに坐して武川鎮に徙された。のち文祖は旧語(鮮卑語)に通じ皇誥(皇帝の詔誥)を訳注し辞義が通弁であったことから陽平太守に超授されたが未拝のうちに外都曹奏事中散に転じ、のち事に坐して法に伏した。
史論
- 史臣は言う。仁人の言には必ず博く利するところがある。参合の役における威罰の実行は、あるいは王建の罪であろうか。安同は異類の人でありながら智識を用いられ時俊と並ぶ任を得た、まことに由あることであろう。頡は赫連昌を擒え義隆の衆を摧き名将となった、軽んずるべきではない。楼伏連・邱堆・娥清はともに壮勇をもって征伐しばしば克ったが、劉尼は国に忠にして主を翼けた、ただ驍猛の用のみではあるまい。奚眷は将略をもって位に至りながら功名を全うできなかった。車伊洛は遠方から心を帰し尋常の戎とは異なった。宿石らはみな忠勤と勇略があり将帥の才を持ち自ら青雲に至った、決して偶然ではない。