魏書卷二十四 列傳第十二 鄧淵
出自と経歴
鄧淵、字は彦海。安定の人。祖の羌は苻堅の車騎将軍、父の翼は慕容垂の鄴包囲時に後将軍冀州刺史眞定侯として仕えたが、垂に「異姓の兄弟であり従うべき」と説かれても「忠臣は二君に事えず」と固辞し、建武将軍河間太守尚書左丞として声望を得た。淵は貞素な人柄で易・筮に通じ、太祖に著作郎として登用され、蒲丘令として盗賊を粛清、尚書吏部郎として崔𤣥伯と共に朝儀・律令・音楽・軍国の文書を定めた。従征平陽の功で漢昌子・下博子・中壘将軍を得た。太祖の命で『国記』十余巻を編んだが、年月と行事を記すのみで体例は未整備であった。従父弟の暉が和跋の獄に連座して逃亡を助けたと疑われ、太祖により淵は賜死された。時人はこれを惜しんだ。
鄧淵の子孫
子の頴は太学生から中書侍郎、世祖の詔で崔浩の国書編纂に参与、髙車部の帰順を記念する文を撰し、劉義隆への使者として侯に進み、延和三年(434年)胡賊白龍討伐から帰路に卒し、諡は文恭。子の怡は荊州刺史・南陽公を経て和平中に卒。長子良奴は襲爵。良奴の弟述(髙祖賜名)は貞謹で知られ廷尉少卿・齊州刺史・太傅長史(帯太原太守)・司空長史を歴任し卒、諡貞。長子纂は中散大夫、纂の弟獻は潁州刺史として建義初め尒朱榮の入洛の際に蕭衍のもとへ奔った。怡の弟宗慶は典南部として州鎮に畏怖され、涇州刺史・趙郡公を経て徐州刺史となったが妻の巫蠱事件に連座し伏誅、子の伯忻も父と共に死んだが伯忻の子儼は逃れて後に尚書郎・郢州行台などを歴任した。
頴の弟權は龍驤将軍豫州刺史新野侯となったが蠕蠕討伐中の失策で法により死んだ。弟の顥は中書侍郎で卒。顥の長子靈珍は秘書中散で卒、その子羨は青州武昌王征虜長史・東魏郡太守として十年間清勤の治績を挙げ「艮二千石」と称されたが、義陽の軍功に対する封爵をめぐり贈賄批判もあった。神龜初め享年五十四で卒し、諡は恭。羨の長子躋(字は伯昇)は父の功が山河(大功)に及ばないとして襲封を許されずのち紹封、蕭衍への降伏に連座し江南で卒した。子の孝緒が北齊建国で降格の上襲爵。靈珍の弟靈竒は昌国侯に封じられ、清簡な統治で知られた。
史臣曰、燕鳳は博識多聞で昭成の代に礼を尽くし国を保つ功を立てた。許謙は才術に優れ艱難の時に決断を助けた。張衮は才策により早くから恩遇を受けたが、寛政なき時代への諫言が咎めを招いた。𤣥伯は名家の出で創業期の重責を担い正道を守った。寛・模はいずれも機を見て動く才があり、道固は窮して帰順した。鄧淵は清廉で有能だったが罪なくして禍を受けた、悲しいことである。