魏書卷十二 帝紀第十二 孝静紀
孝静皇帝(諱善見、524–551年)。清河文宣王亶の世子。永熙三年(534年)、斉献武王高歓に推戴されて即位、鄴へ遷都した(東魏の始まり)。在位中は高歓・高澄・高洋の三代にわたり高氏が実権を握り、帝自身は傀儡にすぎなかった。西魏との抗争(沙苑・邙山・玉壁の戦い等)や侯景の乱を経て、武定八年(550年)高洋に禅譲し東魏は滅亡、中山王に封じられたが翌々年毒殺された(二十八歳)。
年表(12件)
- 永熙三年534年斉献武王高歓に推戴され十一歳で即位
- 天平元年534年城の東北で即位し大赦、鄴への遷都を宣言する
- 天平二年535年斉献武王が相国を固辞する
- 天平四年537年斉献武王が沙苑で西魏軍に敗れ帰還(沙苑の戦い)
- 元象元年538年河陰で西魏軍を大破するが高敖曹らが戦死(邙山の戦い)
- 興和三年541年麟趾格(新制)が天下に頒布される
- 武定元年543年斉献武王が邙山で西魏の宇文黒獺を大破する
- 武定五年547年斉献武王(高歓)が晋陽で薨去、司徒侯景が反乱(侯景の乱)
- 武定七年549年侯景が建業を攻略、斉文襄王(高澄)が邸で薨去
- 武定八年550年帝位を斉国(高洋)に帰す詔を発し遜位する
- 天保元年550年中山王に封じられる
- 天保二年551年中山王(孝静帝)が薨去(二十八歳)、太原公主による酖毒とされる
出自と即位の経緯
- 孝静皇帝、諱は善見。清河文宣王亶の世子で母は胡妃。永熙三年(534年)、通直散騎侍郎を拝し、八月に驃騎大将軍・開府儀同三司となった。出帝が関中に入り斉献武王(高歓)が迎えられなかったため、百寮と会議して粛宗(孝明帝)の後継として帝を推戴した。時に年十一。
天平元年(534年)
- 冬十月丙寅、城の東北で即位し大赦、永熙三年を天平元年と改元。庚午、太師趙郡王諶を大司馬、咸陽王坦を太尉、高盛を司徒、高昂を司空とした。壬申、太廟に事あり、高祖孝文帝の洛陽遷都の故事を引き、詔で漳・滏への再遷都を宣言した。
- 丙子、車駕は鄴に北遷し、斉献武王が留守を統轄、司州を洛州と改めた。従遷の戸には三年(安居の民は五年)租調を免じた。十一月、兗州刺史・樊子鵠と南青州刺史・大野抜が瑕丘で反乱。庚寅、車駕は鄴北城に至り、相州刺史を司州牧、魏郡太守を魏尹と改称、鄴旧民を西へ百里移して新遷の民を住まわせ、鄴を分けて臨漳県を置き、魏郡・林慮・広平・陽丘・汲郡・黎陽・東濮陽・清河・広宗等の郡を皇畿とした。
- 十二月、燕郡王賀抜允が薨じた。侍中・封隆之ら五人を大使として天下を巡諭させた。閏月、蕭衍が元慶和を鎮北将軍・魏王として平瀬郷に入れ、宇文黒獺(宇文泰)は出帝を害した後、南陽王宝炬(西魏文帝)を僭立させた。四中郎将(礓石橋・蒲泉・済北・洺水)を初めて置いた。
天平二年(535年)
- 春正月、(西魏の)渭州刺史・可朱渾道元が部衆を率いて降り、斉献武王がこれを迎え廩食を賑わせた。己巳、斉献武王を相国とし黄鉞を仮し剣履上殿・入朝不趨を許したが王は固辞して受けなかった。
- 二月、前南青州刺史・大野抜が樊子鵠を斬って降り兗州が平定された。蕭衍の司州刺史・陳慶之が豫州を侵し刺史・堯雄がこれを撃退。三月、斉献武王が山胡・劉蠡升を討ち斬り、その子の南海王・西海王らを擒え、逋逃の民二万余戸を得た。
- 夏四月、前青州刺史・侯渠が青・斉を攻略したが済州刺史・蔡儁が討平。六月、元慶和が南頓を侵したが堯雄が大破した。九月、車駕は鄴東で新宮を営むため衆七万六千人を発した。十一月、車駕は圜丘で祀り、閶闔門で火災。斉文襄王(高澄)が起家し散騎常侍・驃騎大将軍・儀同三司・太原郡開国公・食邑三千戸を得た。
天平三年(536年)
- 春正月、羣臣を前殿で饗し、詔で百官に人材推挙を命じた。斉献武王が西夏州の宝炬(西魏)勢力を襲い克ち、九錫の礼を加える詔が出たが固辞し止んだ。三月、陽夏太守・盧公纂が郡を挙げて南叛したが都督・元整がこれを破った。
- 七月、大赦。八月、并・肆・涿・建の四州で霜害・大饑饉があった。九月、定州刺史・侯景を兼尚書右僕射・南道行台として南討にあたらせた。十一月、河北の流民の死者を掩埋するよう詔した。侯景が蕭衍の楚州を克し刺史・桓和を獲た。
- 十二月、大司馬・清河王亶が薨じた。丁丑、斉献武王が晋陽より西討に向かい蒲津に至り、司徒公・高敖曹が上洛へ、竇泰が潼関から進んだ。
天平四年(537年)
- 春正月、竇泰が(西魏軍に)敗れ自殺。丁巳、高敖曹が上洛を攻略し驃騎大将軍・洛州刺史・梁企を擒えた。夏四月、七帝の神主を新廟に遷し大赦、百官に一階進めた。滎陽人・張儉らの反乱を武衛将軍・高元盛が討破した。
- 秋七月、蕭衍に李楷・盧元明・李鄴を使者として遣わした。八月、宝炬・宇文黒獺が陜州を陥落させ刺史・李徽伯を殺した。九月、侍中・元子思とその弟・子華が西入を謀り賜死。
- 冬十月壬辰、斉献武王が西討し沙苑に至ったが(西魏軍に)克てず還った(沙苑の戦い)。西魏の行台・宮景寿らが洛州を侵したが都督・韓延が大破した。西魏は元季海・独孤如願らを送り金墉を占拠し、潁州長史・賀若微が刺史・田迅を捕らえて西叛、また梁回に豫州を陥落させた。十二月、万俟普を太尉とした。
元象元年(538年)
- 春正月、大赦し改元。大都督・賀抜仁が西魏の南汾州を攻略し刺史・韋子粲を擒え、行台・任祥・侯景・高敖曹らが潁州を回復した。二月、豫州刺史・堯雄が揚州を抜き義州刺史・韓顕らを送った。三月、斉献武王が大丞相の解任を固請し許された。
- 秋七月、侯景・高敖曹が金墉で独孤如願を包囲し、西魏の宝炬・宇文黒獺が救援に赴いたため、厙狄干・斉献武王が迎撃。八月辛卯、河陰で大破し、西魏の大都督・儀同三司・寇洛生ら二十余人を斬り数万を俘獲したが、高敖曹・李猛・宋顕らも戦死した(邙山の戦い)。金墉守将・長孫子彦は斉献武王の渡河を見て城を棄てて逃げた。九月、賀抜仁が邢摩納・盧仲礼らを破平した。
興和元年(539年)
- 三月、常山郡王劭の第二子・曜を陳郡王に封じた。五月甲戌、皇后高氏を立て大赦。九月甲子、畿内の民夫十万人を発し鄴城を四十日で築城した。十一月、新宮成り大赦・改元、高齢者に綾帽・杖・帛・粟を賜り築城の夫には一年の租調を免じた。
興和二年(540年)
- 春正月、太保尉景を太傅、驃騎大将軍厙狄干を太保とした。丁丑、新宮に遷り大赦、百官に一階、営構の主将に一階を加えた。閏月、皇子景植を宜陽王、皇弟威を清河王、謙を潁川王に封じた。
興和三年(541年)
- 二月、阿至羅の出吐抜那渾が部を率いて降った。三月、梁州人・公孫貴賓が反乱し天王を自称したが陽夏鎮将が擒えた。夏四月、阿至羅国主・副伏羅越居の子・去賓が降り高車王に封じられた。冬十月、詔で麟趾閣にて斉文襄王と羣臣が定めた新制が天下に頒布された(麟趾格)。十一月、彭城王韶を太尉、胡僧敬を司空とした。
興和四年(542年)
- 四月、広陽王湛を太尉、高隆之を司徒、彭城王韶を録尚書事とした。太傅尉景が事に坐し驃騎大将軍・開府儀同三司に降された。厙狄干を太傅、婁昭を大司馬とした。五月、斉献武王が来朝し、百官が月一度事を奏し明揚仄陋・納諫屏邪・親理獄訟・褒黜勤怠を行うよう請い、後宮の進御にも序を、後園の鷹犬も放つよう請うた。
- 冬十月、斉献武王が西魏の玉壁を包囲し十一月に班師。西河王悰が薨じた。
武定元年(543年)
- 春正月、大赦し改元。二月、北豫州刺史・高仲密が虎牢で西叛。三月、西魏の宝炬の子・元突と宇文黒獺が高仲密を援け、河橋南城を包囲。丙午、帝親ら訴訟を納め、戊申、斉献武王が黒獺と邙山で戦い大破し(邙山の戦い)、西魏の臨洮王元森・蜀郡王栄宗・江夏王元昇・鉅鹿王元闡・譙郡王元亮ら王族と督将四百余人を捕らえ、六万余人を俘斬した。甲仗・牛馬は数え切れず、豫・洛二州が平定された。
- 六月、蕭衍が使を遣わし朝貢。八月、汾州刺史・斛律金を大司馬とした。この月、斉献武王は肆州で夫五万人を発し四十日で長城を築いた。
武定二年(544年)
- 二月、徐州人・劉烏黒の反乱を行台・慕容紹宗が討平。三月、旱により死罪以下の囚を宥した。丙午、孫騰を太保、壬子、斉文襄王を大将軍・領侍中とし文武の職事・賞罰を彼に諮問することとし、中書監・元弼を録尚書左僕射、司馬子如を尚書令、太原公(高洋)を左僕射とした。
- 八月、尚書令・司馬子如が事に坐し免ぜられた。九月、済陰王暉業を太尉とし、太師咸陽王坦が事に坐し免ぜられた。冬十月、孫騰・高隆之を括戸大使とし逃戸六十余万を得た。十二月、斉文襄王が斉献武王に従い山胡を討ち一万余戸を俘獲し諸州に分配した。
武定三年(545年)
- 二月、吐谷渾の従妹を容華嬪として後庭に納れた。夏五月、大赦。十二月、司空侯景を司徒、中書令韓軌を司空、太保孫騰を録尚書事とした。
武定四年(546年)
- 六月、司徒侯景を河南大行台として応機討防にあたらせた。八月、洛陽の漢魏石経を鄴に移した。斉献武王は鄴より西伐し文襄王が晋州で会し、九月に玉壁を包囲したが西魏は応じず、冬十一月、斉献武王が病を得て班師した。
武定五年(547年)
- 春正月丙午、斉献武王が晋陽で薨じたが喪を秘した。辛亥、司徒侯景が反乱し(侯景の乱)、潁州刺史・司馬世雲がこれに応じた。侯景は潁城を占拠し豫州刺史・高元成、襄州刺史・李密、広州刺史・暴顕らを誘い捕らえた。韓軌・賀抜勝・可朱渾道元・劉豊らを遣わし討たせたところ、侯景は西魏の宝炬に降を請い救援を求め、宝炬は李景和・王思政を送り潁州に入らせたため侯景は豫州へ出走した。
- 二月、侯景は再び西魏を裏切り蕭衍に帰し、蕭衍は侯景を河南大将軍とした。夏四月、斉文襄王が来朝。五月、大赦。尉景を大司馬、厙狄干を太師、孫騰を太傅、賀抜仁を太保、韓軌を司徒、可朱渾道元を司空、高隆之を録尚書事、慕容紹宗を尚書左僕射、高陽王斌を右僕射とした。
- 六月、韓軌・可朱渾道元らが潁州より班師。乙酉、帝は斉献武王のため東堂で挙哀し緦縗を服した。秋七月戊戌、詔で斉献武王に相国・都督中外諸軍事・斉王の璽綬・輼輬車・黄屋左纛・九錫の礼を追贈し諡を献武王とし、斉文襄王を使持節大丞相・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台・渤海王とした。壬寅、王に軍国の攝理を詔したが文襄王は固辞し大将軍に留められた。甲申、献武王を鄴城の西北に葬った。
- 九月、蕭衍の兄子・貞陽侯蕭淵明が徐州を侵し泗水を寒山で堰き止め彭城を灌ぎ侯景に呼応したが、冬十月、慕容紹宗・高岳・潘相楽が十一月に大破し、淵明とその子瑀・道、将帥二百余人を擒え五万級を俘斬、凍死・溺死者は数えきれなかった。十二月、蕭淵明は関に至り、帝は閶闔門でこれを責めて宥した。高岳らは軍を回し侯景を討った。
武定六年(548年)
- 春正月己亥、大都督・高岳らが渦陽で侯景を大破し五万余人を俘斬、溺死者で渦水の流れが止まったという。侯景は淮南に走った。二月、蕭衍が使を遣わし款闕し和を乞い斉文襄王に弔書を修めた。
- 夏四月、吏部令史・張永和と青州人・崔闊らの官職偽冒が発覚し、糺検を経て自首した者六万余人。八月、慕容紹宗を大行台とし高岳・韓軌・劉豊らと潁川の王思政を洧水を引いて包囲討伐させた。冬十月、侯景が長江を渡り蕭衍の甥・臨賀王正徳を主に推し建業を攻めた。
武定七年(549年)
- 春正月、蕭衍の甥・北徐州刺史・蕭正表が鍾離を挙げて内属し蘭陵郡開国公・呉郡王に封じられた。三月丁卯、侯景が建業を攻略し蕭衍を主に戻したが、衍の甥・蕭祗・蕭退らが降り、江北の郡国が悉く内属した。
- 夏四月、大行台・慕容紹宗と大都督・劉豊が暴風に遭い溺死した。甲辰、詔で斉文襄王を相国・斉王・緑綟綬とし冀州・瀛州の十郡邑十五万戸を封じたが王は固辞。この月、侯景が蕭衍を殺し子の綱を主に立てた。
- 六月丙申、斉文襄王が潁州で宝炬の大将軍・王思政、潁州刺史・皇甫僧顕ら戦士一万余人・男女数万口を擒えた。秋八月辛卯、皇子長仁を皇太子に立てた。癸巳、斉文襄王が邸で薨じたが喪を秘し大赦、百官に二級を加えた。
武定八年(550年)
- 春正月辛酉、帝は斉文襄王のため東堂で挙哀。丁卯、王に相国・都督中外諸軍事・斉王の璽綬・九錫の礼を追贈し諡を文襄王とした。戊辰、(弟の)斉王(高洋)を使持節丞相・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台・斉郡王・食邑一万戸とした。
- 二月、文襄王を葬った。三月庚申、斉郡王の爵を斉王に進めた。五月甲寅、詔で斉王を相国・総百揆とし冀・瀛二州の十郡二十万戸を封じ九錫の礼を備えさせた。丙辰、帝位を斉国に帰す詔が出て、即日、別宮に遜位した。
退位と最期
- 斉の天保元年(550年)五月己未、帝は中山王に封じられ邑一万戸、上書に臣と称さず、答に詔と称さず、天子の旌旗を戴き魏の正朔を行い五時副車に乗ることを許された。諸子も県公に封じられ、鄴に魏の宗廟が立てられた。
- 天保二年(551年)十二月己酉、中山王は薨じた。時に年二十八。三年二月、孝静皇帝と諡し漳西の山崗に葬った。後にその陵が発かれ崩落で死者六十人を出したという。
- 帝は文学を好み容儀美しく、石獅子を挟んで垣を越える力があり、射れば当たらぬことがなかった。宴会では羣臣に詩を賦させ、その様は従容として沈雅、孝文帝の風があった。斉文襄王(高澄)は帝位継承後もこれを深く忌み、大将軍中兵参軍・崔季舒を中書黄門侍郎として帝の一挙一動を監視させた。文襄が季舒に「痴人(帝)はどうか、痴の勢いは少しも収まらぬか」と書き送ったこともある。
- 帝が鄴の東で狩をした折、監衛都督・烏那羅受工伐が「天子は馬を走らせるな」と叱ったことに文襄が怒った。文襄が侍飲の際「臣澄が陛下に酒を勧める」と大杯を挙げると、帝が「古より亡びぬ国はない。朕もこの生を何に用いよう」と不興げに答えたところ、文襄は激怒し帝を罵り、崔季舒に命じて帝を三拳殴らせた。翌日、文襄は季舒に帝を労わらせ帝も謝したが、絹を賜ろうとしても季舒は受け取れず、文襄が一段を取らせると帝は百匹を束ねて与え「これも一段にすぎぬ」と言った。
- 帝は憂辱に堪えず謝霊運の詩「韓亡子房奮秦帝魯連恥」を詠み、常侍侍講の荀済が帝の意を察して華山王大器・元瑾と密謀し、宮中に山を築くと称して地道を穿ち北城の千秋門に向かわせたが、門者に地下の響きを気づかれ文襄に密告された。文襄は兵を率いて宮に入り帝を詰問したが、帝は「王が自ら反せんと欲するに、我に何の関わりがあろうか。我すら身を惜しまぬのに妃嬪をや」と正色して答え、文襄はかえって牀を下り叩頭して謝罪した。荀済・大器・元瑾らは市で烹刑に処された。
- 文襄が高洋(斉文宣帝)に禅譲する段になり、襄城王旭・司徒潘相楽・侍中張亮・黄門郎趙彦深らが昭陽殿の帝に禅譲を奏上した。帝は「これは久しく譲るべきことと推し量っていた、謹んで遜避しよう」と答え、詔書は侍郎崔劼・裴譲之が起草し楊愔を経て帝に進められた。帝が「これより身をどこに置けばよいか」と問うと、楊愔は北城に別に館宇を用意し法駕・仗衛を備える旨を答えた。
- 帝は御座を下り東廊を歩みながら范曄『後漢書』賛の「献生不辰、身播国屯、終我四百、永作虞賓」の句を口ずさんだ。発輦にあたり帝は六宮との別れを乞い、高隆之が「今、天下すら陛下の天下ではないのに、まして後宮をや」と答え、夫人・妃嬪らと訣別し皆すすり泣いた。嬪の趙国李氏は曹植の詩「王其愛玉体、俱享黄髪期」を誦し、皇后以下も皆泣いた。
- 直長・趙徳が旧い犢車を東上閤で用意し、帝が車に乗ろうとすると趙徳超が支えようとしたため、帝は肘で払い「朕は天を畏れ人に順って相国(高洋)に位を授けたのだ、何者の奴がひとを逼るか」と叱った。雲龍門を出る際、王公百寮が衣冠を正して拝辞し、帝は「今日は漢の献帝が山陽公になった時と変わらぬ」と言い、皆が悲しんだ。高隆之は涙を流し、帝は北城に入った。
- 司馬子如の南宅に居り、文宣帝(高洋)の行幸には常に帝を伴わせた。帝の後妻・太原公主は常に帝の食事を毒見していたが、ついに酖毒に遭い崩じた。