魏書卷十一 帝紀第十一 前廢帝廣陵王紀・後廢帝安定王紀・出帝平陽王紀
前廢帝(廣陵王恭)――出自と即位の経緯
- 前廃帝、諱は恭、字は修業。広陵恵王羽の子で母は王氏。若くして端謹で志操あり、学を好み祖母・嫡母によく仕えて孝行で知られた。正始中に爵を襲ぎ、延昌中に通直散騎常侍を拝し、神亀中に散騎常侍を兼ねた。正光二年(521年)、給事黄門侍郎となったが、元乂の専権を嫌い病と称して出仕せず、五年後には瘖病を装った。建義元年(528年)に儀同三司を除せられた。言葉を絶って十二年近く龍花寺に居り、密告する者があって禍を恐れ上洛に逃れたが追われて京師に送られ、拘禁されたが証拠なく赦された。
- 荘帝が崩じた後、尒朱世隆らは長広王曄が疎遠で人望が薄いとし、王(恭)の沈黙ぶりを人並み外れた度量とみなして廃立を謀り、親しい者を通じて意を伝え迫った。王が「天何言哉」(天何ぞ言わんや)と答えると世隆らは大いに喜んだ。
普泰元年(531年)
- 春三月己巳、長広王曄は邙山の南に至り、尒朱世隆らは王を東郭の外で奉じて禅譲の礼を行った。羣臣の勧進を経て皇帝に即位し、建春・雲龍門から入り太極前殿に昇り羣臣の拝賀を受けた。大赦し、魏を大魏と改め、建明二年を普泰元年と改元。市税・塩税を廃し、雑戸を民に賜り、内外文武に普く四階を加えた。尒朱兆を頴川王、尒朱仲遠を彭城王、尒朱天光を隴西王、尒朱世隆を楽平王、尒朱度律を常山王とするなど尒朱一族を厚く遇し、斉献武王(高歓)の都督・斛斯椿らの軍士にも加級した。
- この月、清河の崔祖螭が青州七郡十余万の衆を率いて東陽を包囲し、幽州刺史・劉霊助が薊で挙兵、高乾邕・高敖曹兄弟が冀州を襲い刺史・元嶷を捕らえ前河内太守・封隆之を推して州事を行わせた。
- 三月、長広王曄を東海王とし、太師・驃騎大将軍らの官を尒朱一族と長孫稚・趙郡王諶らに分け与えた。斉献武王(高歓)は渤海王に封じられ邑を増された。
- 夏、劉霊助が定州刺史・侯淵に破られ斬られた。南青州刺史・茹懐朗の部将・何実が蕭衍軍を破り将・劉相如を擒えた。
- 六月、尒朱仲遠の都督・魏僧朂らが東陽で崔祖螭を撃破し擒斬した。斉献武王は尒朱氏の逆乱を憤り信都で義兵を興し、殷州を平定して刺史・尒朱羽生を斬った。
- 秋七月、尒朱世隆らが前太保・楊椿と前司空公・楊津およびその一族を殺害した。
- 八月、頴川王尒朱兆が井陘から殷州に向かい、李元忠は信都に退いた。九月、常山王尒朱度律・彭城王尒朱仲遠らが義旗(斉献武王)に対抗した。
- 冬十月壬寅、斉献武王は渤海太守・元朗を推して信都で皇帝に即位させた。
普泰二年(532年)
- 春三月、斉献武王が韓陵で尒朱天光らを大破した。夏四月辛巳、斉献武王は前廃帝と邙山に至り、魏蘭根に洛邑を慰諭させ帝の人物を見させたが、蘭根は帝の徳を忌み、崔㥄の議に従って崇訓仏寺で帝を廃し、平陽王修(出帝)を立てた。
- 帝は位を失って詩を賦し、時運の無常を嘆いた。太昌元年(532年)初め、帝は門下外省で崩じた。時に年三十五。出帝は百司を会葬させ、大鴻臚に喪事を監護させ、王の礼をもって葬り九旒・鑾輅・黄屋・左纛を加え、二衛・羽林の儀衛を備えさせた。
後廢帝(安定王朗)――出自と即位の経緯
- 後廃帝、諱は朗、字は仲哲。章武王融の第三子で母は程氏。若くして聡明で知られた。永安二年(529年)、肆州の魯郡王後軍府録事参軍・儀同開府司馬となった。元曄の建明二年(531年)正月戊子、冀州渤海太守となり、斉献武王が義兵を興し暴逆を誅そうとするに及び推戴された。
中興元年(531年)
- 冬十月壬寅、信都城西で皇帝に即位し祭壇を築き燎祭を行い、大赦し中興元年と称した。文武百官に普く四階を加え、斉献武王を侍中・丞相・都督中外諸軍事・大将軍・録尚書事・大行台とし邑三万戸を増した。高乾邕を侍中・司空公、高敖曹を驃騎大将軍・儀同三司・冀州刺史(終身)とした。
- 己酉、尒朱度律・尒朱仲遠・斛斯椿・賀抜勝・賈顕智が陽平で義師に対抗しようとしたが、斉献武王が反間を用いて尒朱兆との仲を疑わせ、敗れて散り退いた。辛亥、斉献武王が広阿で尒朱兆を大破し、その卒五千余人を虜にした。
- この年、南兗城民・王乞徳が前刺史・劉世明を逼って蕭衍に州を降し、蕭衍の将・元樹が譙城に入った。
中興二年(532年)
- 春正月壬午、鄴城を攻略し刺史・劉誕を擒えた。二月、孝荘皇帝を武懐皇帝と諡し、斉献武王を大丞相・柱国大将軍・太師とし邑六万戸とした。
- 三月、車駕が鄴に行幸。四月、尒朱天光・尒朱兆・尒朱度律・尒朱仲遠らが洹水の南に屯した。斉献武王が紫陌に進出し、壬戌、韓陵で尒朱天光らの四胡を大破した。前廃帝の鎮軍将軍・賀抜勝、徐州刺史・杜徳が陣中で降り、尒朱兆は并州へ逃げ、仲遠は東郡へ奔った。
- 大都督・斛斯椿・賈顕智らが河橋を占拠し、天光・度律を河橋西北で捕らえた。長孫稚・賈顕智らが京師に入り尒朱世隆・彦伯を都街で斬った。天光・度律は斉献武王のもとに送られた。
- 五月辛巳、車駕は河陽に至り別邸に遜位した。太昌元年(532年)五月、安定郡王に封じられ邑一万戸を得たが、後に罪により門下外省で死んだ。時に年二十。永熙二年(533年)、鄴の西南・野馬岡に葬られた。
出帝(平陽王修)――出自と即位の経緯
- 出帝、諱は修、字は孝則。広平武穆王懐の第三子で母は李氏。性は沈厚で寡言、武事を好んだ。汝陽県開国公に始めて封じられ、通直散騎侍郎を拝し中書侍郎に転じた。建義初め散騎常侍を除せられ平東将軍・太常卿を経て鎮東将軍・宗正卿となった。永安三年(530年)、平陽王に封じられた。普泰初め侍中・鎮東将軍・儀同三司・尚書右僕射に転じ、後に尚書左僕射を加えられた。
太昌元年(532年、後に永興・永熙元年と改元)
- 中興二年(太昌元年)夏四月、安定王(後廃帝)が自ら疎遠であり四海の心に叶わないとして帝位を辞し、斉献武王と百官が議して高祖の後継が絶えてはならないとし、共に修(出帝)を推戴した。戊子、東郭の外で即位し東陽・雲龍門から太極前殿に入り羣臣の拝賀を受けた。大赦し中興二年を太昌元年と改元。
- 斉献武王を大丞相・天柱大将軍・太師・世襲定州刺史とし邑十五万戸とした。五月、斉献武王は鄴に還り、車駕は乾脯山で餞別した。
- 六月、前廃帝の広陵王・沛郡王欣を太師、趙郡王諶を太保、清河王亶を儀同三司、南陽王宝炬を太尉公、長孫稚を太傅とするなど諸王・重臣を任じた。羽林隊主・唐猛が禁衛を犯した罪で階下で斬られた。
- 七月、斉献武王が滏口から、都督・厙狄干が井陘から進軍し尒朱兆を討った。九月、斉献武王が尒朱天光・尒朱度律を京師に送り都市で斬った。斉献武王は晋陽の北で尒朱兆の残党を追い、秀容・并州を平定した。
- 十二月丁亥、大司馬・汝南王悦を殺害し大赦、太昌を永興と改元、まもなくさらに永熙元年と改元した。
永熙二年(533年)
- 春正月甲午、斉献武王が晋陽より出て尒朱兆を討ち、丁酉、赤洪嶺で大破すると兆は逃げて自殺した。三月、東梁州が夷民に侵逼された。夏四月、青州人・耿翔が膠州を襲い刺史・裴粲を殺し蕭衍に通じた。
- 六月、東徐州城民・王早簡実らが刺史・崔庠を殺し州を挙げて蕭衍に入った。九月、斉文襄王(高澄)が来朝し、斉献武王は王爵の辞退を上表し邑十万戸を分け勲功者に回授することを願い出て許された。
永熙三年(534年)
- 春正月、斉献武王が河西で費也頭を大破し、その帥・紇豆陵伊利を擒え部落を内地に遷した。閏五月辛卯、詔で大魏の威と長江以北の版図の広大さを述べ、天歩の乱れと権臣の専横を憂い、帝自ら六軍を率いて彭・汴に親征する意を示した。実際は斛斯椿・元毗・王思政らが斉献武王を疑わせ、蕭衍討伐を名目に河南諸州の兵を盛暑に徴発したもので、天下は怪しみ悪んだ。
- 六月丙子、詔で殉節・戦死者の顕彰を命じた。秋七月己丑、帝は六軍十余万を親率し河橋に至り、斛斯椿を前軍大都督とした。丁未、帝は椿らに迫られ長安へ出奔した。己酉、斉献武王が洛陽に入り、賀抜勝は荆州へ走った。
- 八月、司徒公清河王亶を大司馬として万機を承制させ、斉献武王が長安へ帝を迎えに向かい、天下を大赦する制を発した。行台侯景が荆州の賀抜勝を討ち、勝は敗れて蕭衍のもとへ奔った。九月、斛斯椿党の毛鴻賓が守る潼関を斉献武王が破り、斉献武王は洛陽に東遷した。
- 冬十月、驃騎大将軍・侯淵が東揚州を克し刺史・東萊王貴平を斬り首を京師に伝えた。閏十二月癸巳、帝は宇文黒獺(宇文泰)に害された。時に年二十五。
史論
- 史臣曰く、広陵(前廃帝)は前に廃され、中興(後廃帝)は後に廃され、平陽(出帝)は猜疑・惑乱して自ら宗廟を絶った。普泰の政は道に外れることが多く、永熙の悖徳は甚だしかった。三帝はともに滅び、天下に見捨てられたのではなかろうか。