魏書卷五 帝紀第五 高宗紀
高宗文成皇帝(諱濬、440–465年)。恭宗景穆皇帝の長子で、世祖太武帝の嫡孫。正平二年(452年)、宗愛による南安王余弑殺後の混乱を収めて即位した。廃仏(太平真君の法難)後の仏教を復興させ、乙渾の専権を経て親政を行った。北魏の統治を安定させた君主。
出自と生い立ち
- 高宗文成皇帝、諱は濬。恭宗景穆皇帝の長子で、母は閭氏。
- 眞君元年(440年)六月、東宮で誕生。世祖(太武帝)に深く愛され常にそば近くに置かれて「世嫡皇孫」と称された。
- 5歳のとき世祖の北巡に従い、途上で虜の将帥が奴隷を桎に繋いで処罰しようとしたのを見て「奴は私に逆らったのだからお前が許してやれ」と言い、その将帥は命令に従って縄を解いた。世祖はこれを聞き「この子は幼いのに天子として振る舞おうとしている」と非凡さに感心した。
- 成長するにつれ風格は尋常でなくなり、常に大政に参与し可否を裁決した。
即位(正平二年/452年)
- 十月戊申、永安前殿で皇帝に即位。大赦し改元。
興安元年(452年)
- 冬十月、驃騎大將軍の元夀樂を太宰・都督中外諸軍事・録尚書事に、尚書の長孫渴侯を尚書令に任じ、ともに儀同三司を加えた。
- 十一月丙子、両者は権力を争ってともに賜死。癸未、廣陽王建が薨去。臨淮王譚が薨去。甲申、皇妣(母)が薨去。
- 太尉の張黎、司徒の古弼は議論が上意に合わず、外都大官に降格。平南將軍の宋子侯周忸は爵位を進めて樂陵王、南部尚書の章安子陸麗は平原王となった。文武官はそれぞれ位一等を加えられた。
- 壬寅、景穆太子を景穆皇帝、皇妣を恭皇后と追尊。保母の常氏を保太后と尊んだ。隴西の屠各の王景文が反乱、統萬鎮將の南陽王惠夀に討伐させ平定。
- 十二月戊申、恭皇后を金陵に祔葬。乙卯、仏法を復興。丁巳、樂陵王周忸を太尉、平原王陸麗を司徒、鎭西將軍杜元寳を司空とした。保達・沙獵の国が使者を送り朝献。
- 戊寅、建業公陸俟が東平王に進爵。廣平公杜遺が王に進爵。癸亥、営州の蝗害により倉を開いて賑恤するよう詔した。甲子、太尉の樂陵王周忸が罪により賜死。濮陽公閭若文が王に進爵。
興安二年(453年)
- 春正月辛巳、司空杜元寳が京兆王に進爵。廣平王杜遺が薨去。尚書僕射東安公劉尼が王に進爵。建寧王崇の子麗を濟南王に封じた。
- 癸未、民との雑調を十五分の一とする詔。丙戌、尚書西平公源賀が王に進爵。
- 二月己未、司空京兆王杜元寳が謀反して誅殺。建寧王崇、崇の子で濟南王の麗は元寳に引き込まれたとしてともに賜死。乙丑、京師から五千人を発して天淵池を掘らせた。この月、劉義隆(宋文帝)の子劭が父を殺して自立(元凶劭の乱)。
- 三月壬午、保太后を皇太后に尊んだ。安豐公閭虎皮が河間王に進爵。乙未、疏勒国が使者を送り朝献。
- 夏五月乙酉、崞山に行幸、辛卯還宮。この月、劉劭の弟駿が劭を殺して自立(宋孝武帝即位)。閏月乙亥、太皇太后赫連氏が崩御。
- 秋七月辛亥、隂山に行幸。濮陽王閭若文・征西大將軍永昌王仁が謀反。乙丑、仁を長安で賜死。若文は誅殺。己巳、還宮。この月、南郊に馬射臺を築いた。
- 八月辛未、渴槃陁国が使者を送り朝貢。戊戌、詔を発し「即位以来百姓は安んじ風雨は順調で辺境も無事、多くの瑞祥が現れた。苑内で方寸の玉印を得て『子孫長夀』の文があった」と述べ、大酺三日を命じ死罪以下を一等減じた。
- 九月壬子、南郊で閲武。冬十一月辛酉、信都・中山に行幸し風俗を視察。十二月、河間の鄚の民で盗賊となった者は男十五歳以下を生口として従臣に班賜する処分とした。甲午、還宮。厙莫奚・契丹・罽賔ら十余国が使者を送り朝貢。北平公長孫敷の王爵を回復。
興光元年(454年)
- 春正月乙丑、侍中河南公伊馛を司空に。二月甲午、帝は道壇に至り図籙を受けた。京師を曲赦し班賞。
- 夏六月丙寅、隂山に行幸。秋七月庚子、皇子𢎞(のちの獻文帝)が誕生。辛丑、大赦改元。
- 八月甲戌、趙王深が薨去。乙亥、還宮。己丑、皇叔虎頭・龍頭が薨去。
- 九月庚申、庫莫奚国が一角の名馬を献上。この月、都城門を閉じて三日間大索し、逃亡者数百人を捕えた。
- 冬十一月、北鎮將の房杖が蠕蠕を撃ち、その将豆渾与句らを捕虜とし馬千余匹を得た。戊戌、中山に行幸、信都へ。十二月丙子、靈丘・温泉宮を経て還宮。出于叱萬單国が使者を送り朝献。
太安元年(455年)
- 春正月辛酉、世祖・恭宗の神主を太廟に奉安。車騎大將軍樂平王拔が罪により賜死。二月癸未、武昌王提が薨去。
- 三月己亥、世祖・恭宗を太廟に奉安し西苑で群神を祭ったことを述べ、大慶に百寮を饗する一方で罪人が処刑されるのは民を慈しむ道でないとして、京師の死囚以下を曲赦する詔を発した。
- 夏六月壬戌、皇子の名を宏(𢎞)と定め、京城を曲赦し改元。癸酉、治政のあり方について、官吏の登用と地方視察の要諦を説く詔を発し、尚書穆真ら三十人を各州郡に派遣して風俗を観察させた(農地荒廃・重税・流民・盗賊横行・冤罪などの兆候から地方官の善悪を判定する基準を細かく示した)。
- この月、遮逸国が使者を送り朝貢。戊寅、帝は犢倪山で狩り、甲申還宮。
- 秋七月丙辰、河西に行幸。八月丁亥、還宮。冬十月、波斯・疏勒国が朝貢。庚午、遼西公常英を太宰とし王に進爵。
太安二年(456年)
- 春正月乙卯、皇后馮氏を立てた。二月丁巳、皇子𢎞を皇太子に立て、大赦天下。丁零数千家が井陘山に逃げ込み盗賊となったため、定州刺史許宗之・并州刺史乞佛成龍に討伐させ平定。
- 夏六月、羽林郎の于判元提らが謀反し誅殺。秋八月甲申、河西で狩り。この月、平西將軍漁陽公尉眷が伊吾を撃ち、大いに戦果を得て帰還。
- 九月辛巳、河東公閭毗・零陵公閭紇が王に進爵。冬十月甲申、還宮。甲午、京師を曲赦。十一月、尚書西平王源賀が隴西王に改封。嚈噠・普嵐国が朝献。劉駿(宋孝武帝)の濮陽太守姜龍駒・新平太守楊伯倫が郡を棄てて吏民を率い投降。
太安三年(457年)
- 春正月壬戌、崞山で狩り。戊辰還宮。粟特・于闐国が朝貢。漁陽公尉眷を召し太尉とし王に進爵、録尚書事とした。
- 夏五月庚申、松山で狩り。己巳還宮。皇弟の新成を陽平王に封じた。六月癸卯、隂山に行幸。
- 秋八月、隂山の北で狩り。己亥還宮。冬十月、東巡のため太宰常英に遼西黄山に行宮を築かせた。十一月、蛮王文虎龍が千余家を率いて内附。十二月、五州鎮の蝗害・飢饉に開倉賑恤。この月、于闐・扶餘ら五十余国が朝献。
太安四年(458年)
- 春正月丙午朔、初めて酒禁を設けた。乙卯、廣寗温泉宮に行幸し東巡、平州へ。庚午、遼西黄山宮に至り数日遊宴、高齢者を労った。
- 二月丙子、碣石山に登り滄海を観る。羣臣に大饗し、碣石山を樂遊山と改称、壇を築いて行いを記した。戊寅、南下し信都・廣川で狩り。三月丁未、中山で馬射を観る。経過した郡国は一年賦役を免除。丙辰還宮、太華殿を起工。乙丑、東平王陸俟が薨去。
- 夏五月壬戌、地方官の不正な収奪を戒め改善を求める詔。六月丙申、松山で狩り。秋七月庚午、河西に行幸。九月乙巳還宮。辛亥、太華殿完成。丙寅、羣臣を饗し大赦天下。
- 冬十月甲戌、隂山を北巡、古塚の毀廃を見て「昔文王は枯骨を葬った、今後墳墓を穿ち毀す者は斬る」と詔した。劉駿の将殷孝祖が清水東で城を修築、鎮西將軍天水公封勑文らに撃たせた。辛卯、車輪山で石を積み行いを記す。征西將軍皮豹子ら三將・三万騎で孝祖攻撃を助けさせた。車駕は沙漠を渡り蠕蠕を追ったが遠く逃げて跡を絶った。その別部烏朱賀頽・庫世頽が衆を率いて投降。十二月、征東將軍中山王託眞が薨去。
太安五年(459年)
- 春正月己巳朔、征西將軍皮豹子が髙平で孝祖を大破し五千余級を斬獲。二月己酉、侍中司空河南公伊馛が薨去。三月庚寅、京師の死罪以下を曲赦。
- 夏四月乙巳、皇弟子の推を京兆王に封じた。五月、居常国が朝献。六月戊申、隂山に行幸。秋八月庚戌、雲中へ。壬戌還宮。
- 九月戊辰、褒賞と刑罰は功罪に応じるべきとする詔。儀同三司敦煌公李寳が薨去。冬十二月戊申、六鎮・雲中・髙平・二雍・秦州の災害・旱害に対し開倉賑恤するとの詔。
和平元年(460年)
- 春正月甲子朔、大赦改元。庚午、散騎常侍馮闡を劉駿のもとへ使者として遣わした。
- 二月、衛將軍樂安王良が東雍・吐京六壁の諸軍を率い河西へ、征西將軍皮豹子らが河西諸軍を率い石樓へ趣き、河西の叛胡を討伐。
- 夏四月戊戌、皇太后常氏が壽安宮で崩御。五月癸酉、廣寗鳴鷄山に葬る。六月甲午、征西大將軍陽平王新成らに統萬・髙平諸軍を率い南道から、南郡公李惠らに涼州諸軍を率い北道から吐谷渾を討伐させた。崔浩の誅殺以来廃されていた史官をこの時再置した。河西の叛胡が長安に自首し、使者を送って安撫した。
- 秋七月乙丑、劉駿が朝貢。壬午、河西に行幸。八月、西征軍が西平に至り、什寅(吐谷渾王)は南山に逃げ込んだ。九月、諸軍が黄河を渡り追撃したが瘴気にあたり疫病が多発、軍を返し家畜二十余万を獲た。庚午還宮。
- 冬十月、居常王が馴象を献上。十一月、散騎侍郎盧度世・員外郎朱安興を劉駿のもとへ派遣。
和平二年(461年)
- 春正月乙酉、州の統治は民に範を示すべきとして、発調に乗じて商人が高利貸で民を苦しめている弊害を全面禁止し、十疋以上の違反者は死罪とする詔。
- 二月辛卯、中山に行幸、鄴、信都へ。三月、劉駿が朝貢。行幸中は常に高齢者に対面し疾苦を問うた。八十歳以上の民には子一人の徭役を免除。靈丘南の山に群臣を集め弓を射させたが誰も及ばず、帝自ら矢を放ち山を越え三十余丈、山南二百二十歩に達したため石に刻んで功を記した。幷肆州から五千人を発し河西の猟道を治めさせた。辛巳還宮。
- 夏四月乙未、侍中征東大將軍河東王閭毗が薨去。五月癸未、南部尚書黄盧頭・李敷らに諸州の考課をさせた。
- 秋七月戊寅、皇弟小新成を濟隂王、平原鎮守の天賜を汝隂王(征南大將軍・虎牢鎮)、萬夀を樂浪王(征北大將軍・和龍鎮)、洛侯を廣平王とした。壬午、山北を巡行。八月戊辰、波斯国が朝献。丁丑還宮。
- 冬十月、員外散騎常侍游明根・員外郎昌邑侯和天徳を劉駿のもとへ派遣。博陵深澤・章武束州で盗賊が県令を殺害、州軍が討伐平定。廣平王洛侯が薨去。
和平三年(462年)
- 春正月壬午、車騎大將軍東郡公乙渾を太原王とした。癸未、樂浪王萬夀が薨去。二月癸酉、崞山で狩り、旋鴻池で漁を見る。
- 三月甲申、劉駿が朝貢。髙麗・蓰王契嚙・思厭於師・疏勒・石那・悉居半・渴槃陁ら諸国が朝献。
- 夏六月庚申、隂山に行幸。將軍陸真に雍州の叛氐仇傉檀らを討たせ平定。秋七月壬寅、河西へ。九月壬辰、征西大將軍常山王素が薨去。
- 冬十月丙辰、選抜官吏は年長者・熟練者を優先すべしとの詔。この月、員外散騎常侍游明根・員外郎昌邑侯和天徳を劉駿のもとへ派遣。十一月壬寅還宮。十二月乙卯、戦陣の法を制定し、十余条を定めた。大儺に際し飛龍・騰虵・魚麗の陣形を披露して武威を示した。戊午、零陵王閭㧞が薨去。
和平四年(463年)
- 春三月乙未、京師の七十歳以上の民に太官の厨食を賜り、その年を全うさせた。皇子胡仁が薨去、追封して樂陵王とした。乙巳、官職を厳格に運用し兵民を過度に使役させないよう戒める詔。
- 夏四月癸亥、西苑で虎三頭を親射。五月壬辰、侍中漁陽王尉眷が薨去。壬寅、隂山に行幸。
- 秋七月壬午、講武の場は費用を抑え旧慣どおりとする詔。八月丙寅、河西で狩り。従官の濫殺を禁じ、獲物の皮肉は別に頒賜する詔。壬申、飢寒により売られた男女を家に還すよう命じ、なお隠して奴婢とする者を厳しく取り締まる詔。九月辛巳還宮。
- 冬十月、定相二州の霜害により田租を免除。員外散騎常侍游明根・驍騎將軍昌邑子婁内近・寧朔將軍襄平子李五鱗を劉駿のもとへ派遣。十二月辛丑、婚葬儀礼の格式を定め貴賎の別を示す詔。壬寅、婚姻における身分秩序を厳格にし、皇族・士民は百工技巧の卑姓と婚姻できないとする詔。
和平五年(464年)
- 春正月丁亥、皇弟雲を任城王に封じた。二月、十四州鎮の水害・虫害に開倉賑恤。夏四月癸卯、頓丘公李峻が王に進爵。閏月戊子、旱害により帝は膳を減じ自ら責めた。その夜大雨。
- 五月庚申、劉駿(宋孝武帝)が死去し子の子業が僭立(前廃帝)。六月丁亥、隂山に行幸。秋七月辛丑、北鎮の遊軍が蠕蠕を大破。壬寅、河西へ。九月辛丑還宮。
- 冬十月、琅邪王司馬楚之が薨去。十二月、南秦王楊難当が薨去。吐呼羅国が朝献。
和平六年(465年)
- 春正月丙申、大赦天下。三月丁丑、樓煩宮に行幸。髙麗・蓰王・對曼ら諸国が朝献。戊戌、相州刺史西平郡王吐谷渾権が薨去。乙巳還宮。
- 夏四月、破洛那国が汗血馬を献上。普嵐国が宝剣を献上。
- 五月癸卯、帝は太華殿で崩御。享年二十六。六月丙寅、諡を文成皇帝、廟号を髙宗とした。八月、雲中の金陵に葬った。
史論
- 史臣曰く、世祖(太武帝)は四方を経略して国内を疲弊させたが、その後国難の時期にあって朝野は緊張していた。髙宗はその情勢に応じて静かにこれを鎮め、威を養い徳を布いて中外を懐柔した。深い洞察と済世の心がなければこれほどのことはできなかったであろう、まことに君主たる度量を備えていたと言える。