元史紀事本末諸将の抗争(博囉斉/李思/庫庫弼/張良)(諸帥之爭(博囉齊/李思) (庫庫弼/張良))
元末、博囉特穆爾と庫庫特穆爾(察罕特穆爾の子)が晋・冀の分地をめぐって争い、帝と皇太子の対立と絡んで内戦に至る顛末。順帝至正十九年三月(1359年)の博囉特穆爾の大同鎮守から至正二十七年冬十月(1367年)の庫庫特穆爾の兵権解除、そして元の滅亡まで九年間。博囉は二度も兵を京師へ向けて丞相となったが、華善らに刺殺され、皇太子に扈従した庫庫が代わって河南王・左丞相となった。しかし李思斉・張良弼らが庫庫に抗し、関保・摩該も叛いて内訌が続くうち明の兵が河南・山東を平定し、帝は北へ奔って国は滅んだ。
年表(20件)
- 順帝
- 至正十九年三月1359年達実巴図爾の子・博囉特穆爾が大同へ移って鎮守し屯田を統べる
- 至正二十年八月1360年石嶺関を境に博囉特穆爾と察罕特穆爾の分地を定めるよう詔する
- 至正二十年九月1360年博囉が石嶺関から晋・冀を攻め、朝廷が二度使者を出して和解させる
- 至正二十一年冬十月1361年博囉が張良弼と結んで庫庫特穆爾の分地を侵し真定に拠る
- 至正二十二年六月1362年博囉が珠展に陝西を襲わせるが、庫庫と李思斉の兵に攻められて降る
- 至正二十三年十二月1363年宦者らを弾劾した御史大夫の婁達実が罷免され博囉の軍中に逃れる
- 至正二十四年三月1364年婁達実を匿うとして博囉特穆爾の官爵を削るが、博囉は命を拒む
- 至正二十四年夏四月1364年托卜堅の兵が居庸関から迫り、皇太子は出奔、博囉の官爵が復される
- 至正二十四年五月1364年皇太子が庫庫特穆爾に三道から博囉を討たせ、博囉は再び京師へ向かう
- 至正二十四年六月1364年白算卓が兵を率いて京師に至る
- 至正二十四年秋七月1364年博囉が入京して右丞相となり、皇太子は冀寧へ走る
- 至正二十五年三月1365年博囉が皇后を幽閉し、伊蘇が離反して庫庫らと連携して博囉を討つ
- 至正二十五年秋七月1365年華善の謀により拝達勒が延春閣の下で博囉特穆爾を斬る
- 至正二十五年九月1365年庫庫特穆爾が太子に扈従して入京し、中書左丞相・知枢密院事となる
- 至正二十五年十月1365年観音努が婁達実を捕らえて誅し、托卜堅特穆爾も誅される
- 至正二十五年閏月1365年庫庫特穆爾を河南王に封じ、諸道の軍馬を総べて親征に代えさせる
- 至正二十六年二月1366年庫庫特穆爾が軍を懐慶、ついで彰徳に移して各地の軍馬を差配する
- 至正二十七年1367年李思斉・張良弼・図嚕卜が盟して庫庫特穆爾に抗し、朝廷はその異志を疑う
- 至正二十七年秋七月1367年皇太子に天下の軍馬を総制させ、諸帥の担当地域を定めて和睦を促す
- 至正二十七年冬十月1367年庫庫特穆爾の兵権を解いて撫軍院を立て、内訌のうちに明の兵が迫る
順帝至正十九年三月(1359年)
- 博囉特穆爾に大同へ移って鎮守するよう詔した。
- 博囉特穆爾は達実巴図爾の子である。父に従って劉福通らを討ってたびたび戦功を立て、父の没後は河南行省平章政事として代わってその衆を総べ、福通を衛輝で撃って走らせ、そのまま真定に屯した。さらに武安から彭城を経て沙劉らを迎え撃って破り、兵を率いて曹州を攻め落とした。
- ここに至って朝廷は博囉特穆爾に大同へ移って京師の防壁とするよう命じた。あわせて大都督兵農司を置き、十道に分けてもっぱら屯田を監督させ、博囉特穆爾に統べさせた。
至正二十年八月(1360年)
- 博囉特穆爾に石嶺関以北を、察罕特穆爾に石嶺関以南を守るよう詔した。
- もともと山西・晋・冀の地はみな察罕特穆爾が平定したものであったが、博囉特穆爾の兵が大同に駐屯して晋・冀まで併せ取ろうとしたため、互いに仇敵となっていた。それでこの詔が出たのである。
至正二十年九月(1360年)
- 博囉特穆爾がまた兵を調えて石嶺関からまっすぐ晋・冀に至り、その城を三日囲んでから退いて交城に屯した。察罕特穆爾は兵を出して防いだ。朝廷は使者を遣わして講和を諭した。
- まもなくあらためて晋・冀を博囉特穆爾に与えるよう命じたが、察罕特穆爾は従わず、部将の算卓らを遣わして争わせ、東勝州などで交戦した。朝廷はふたたび使者を遣わして和解を諭し、二人はようやくそれぞれの鎮に還った。
至正二十一年冬十月(1361年)
- 博囉特穆爾があらためて真定に進んで屯した。当時、察罕特穆爾は害され、子の庫庫特穆爾がその任を継いでいた。博囉特穆爾は張良弼と結んでふたたび晋・冀を図ろうとし、兵を率いて庫庫特穆爾の分地を侵し、そのまま真定路に拠った。
至正二十二年六月(1362年)
- 博囉特穆爾が珠展を遣わして陝西を襲って拠らせた。
- 当時、陝西行省右丞の達実特穆爾は行台と隙があり、陝西が庫庫のものになるのを恐れ、ひそかに博囉と結んで珠展の入城を請い、御史大夫の旺扎勒特穆爾の印を奪ってこれを拘留した。庫庫は部将の摩該を遣わし、李思斉の兵と合わせて攻めさせ、珠展は降った。
至正二十三年十二月(1363年)
- 御史大夫の婁達実が罷免されて東勝州に安置され、婁達実は博囉の軍中に逃げ隠れた。
- 当時、帝は在位が久しく、皇太子は年ごとに成長して、軍国の事はみな太子が裁決していた。皇后の奇氏はそこで内禅を謀り、宦者の□布哈(原文は姓にあたる一字が欠けている)に丞相の太平へ意を伝えさせた。太平が答えなかったので罷免され、吹斯絅が丞相となった。
- 帝はますます政を厭い、□布哈は隙に乗じて事を執り、吹斯絅と表裏をなして、各地の警報をみな抑えて奏聞せず、内外は憂え憤った。宣政院事の托歓も同じく悪をなし、国の大きな害虫となった。
- そこで監察御史の也先特穆爾・孟額森布哈・傅公譲らが、□布哈と托歓は姦邪であり退けるべきだと弾劾し、御史大夫の婁達実がその事を奏聞した。しかし皇太子は取り上げず、皇后はとりわけ固く庇い、御史はみな連座して左遷された。
- 治書侍御史の陳祖仁は続けて皇太子に書を上って切に諫め、台臣は大小を問わず辞職した。皇太子はそこで帝に言上して二人にしばらく辞退させたが、祖仁の言はなおやまず、さらに帝に上書して「二人は乱の階、禍の本です。今除かなければ後日必ず不利になります」と述べた。侍御史の李国鳳も上書して争った。これにより帝は大いに怒り、国鳳・祖仁らもみな左遷された。
- 当時、婁達実がこの件をかなり強く進めたので、皇太子はこれを憎み、皇后も内で讒言した。帝は婁達実が母方の伯父にあたるので雍王に封じて帰国させた。まもなくまた□布哈を崇政院使とした。婁達実は大同に至ると、そのまま博囉特穆爾の軍中に留まった。皇太子はたびたび引き渡しを求めたが応じなかった。
至正二十四年三月(1364年)
- 博囉特穆爾の官爵を削るよう詔した。
- 当時、皇太子は庫庫特穆爾を外の後ろ盾として頼み、博囉特穆爾が婁達実を匿って引き渡さないことを恨んでいた。吹斯絅と□布哈はそこで、博囉特穆爾が婁達実らと不軌を謀っていると誣告し、詔によりその官を削って兵権を解き四川へ帰らせようとしたが、博囉は命を拒んで受けなかった。
至正二十四年夏四月(1364年)
- 庫庫特穆爾に博囉を討つよう詔した。博囉は詔命による調発がみな吹斯絅の仕業だと知り、托卜堅特穆爾に兵を挙げて宮闕へ向かわせた。
- 托卜堅の兵が居庸関に入り、知院の伊蘇と詹事の布埒斉が迎え撃ったが利あらず、皇太子は侍衛の兵を率いて光熙門を出て東の古北口へ走り、興松へ向かった。
- 托卜堅の兵は清河に至って営を並べた。当時、京師は無防備で城中は大いに震え、百官・吏卒に分担して京城を守らせた。達勒達国師をその軍へ遣わして事情を問うと、托卜堅は必ず吹斯絅と□布哈を渡せと答えた。詔で慰めて解こうとしたが聞かず、そこで吹斯絅と□布哈の二人を捕らえて渡し、あわせて博囉の官爵を復して兵事を総べさせた。
- 托卜堅は兵を率いて建徳門から入り、延春閣で帝に謁して慟哭して罪を請うた。帝は宴を設けて賜物を与え、博囉に太保を加えてなお大同を守禦させ、托卜堅を中書平章政事とした。
至正二十四年五月(1364年)
- 皇太子が出奔して嚕爾嶺に至り、詔で追いついて宮に帰るよう命じた。皇太子は憤りやまず、庫庫特穆爾に兵を調えて道を分けて博囉を討たせた。
- 東道は白算卓が三万を率いて京師を守り、中道は摩該と珠展が四万を率い、西道は関保が五万を率いて合撃した。関保らが進んで大同に迫ると、博囉は兵を留めて大同を守らせ、自ら兵を率いて托卜堅・婁達実とふたたび大挙して宮闕へ向かった。
至正二十四年六月(1364年)
- 白算卓が兵を率いて京師に至った。
至正二十四年秋七月(1364年)
- 博囉の前鋒が居庸関に入り、皇太子は自ら兵を率いて清河で防いだが、軍士にはみな闘志がなく、太子は都城へ馳せ帰った。
- 白算卓が兵を率いて平則門から入り、そのまま太子に扈従して雄州・霸州・河間を経て冀寧へ走った。
- 博囉は軍を進めて健徳門の外に駐まり、托卜堅・婁達実とともに帝に謁見した。博囉は皇太子を追撃しようとしたが婁達実が止めた。帝は博囉を中書左丞相とし、まもなく右丞相に進めて天下の軍馬を節制させ、婁達実を平章政事、托卜堅特穆爾を御史大夫とした。
至正二十五年三月(1365年)
- 皇太子が庫庫特穆爾の軍中に令を下して博囉特穆爾を討たせた。
- 博囉はこれを聞いて第二皇后の奇氏を宮から出して諸色総管府に幽閉した。まもなく后に迫って宮に戻らせ、印章を取って后の書を偽造して太子を召し、また后を出して幽閉した。
- 托卜堅特穆爾に衆を率いて上都の太子方の者を攻めさせ、伊蘇を調えて南で庫庫特穆爾の兵を防がせた。伊蘇は良郷に宿って進まず、衆に諮ったところ、みな博囉の悖逆は内外がひとしく憤るところだとしたので、兵を率いて永平へ帰り、人を遣わして西は庫庫特穆爾、東は遼陽の諸王と連携してともに博囉を討つこととし、軍声は大いに振るった。
- 博囉はこれを憂え、驍将の姚巴延布哈を遣わして防がせたが、通州に至ると河が溢れたので虹橋に営を構えて待った。伊蘇は不意を突いて襲い破り、姚巴延を捕らえて斬った。博囉は大いに怒り、自ら通州へ出たが、三日大雨が降って帰った。
- 当時、皇后もたびたび美女を博囉に贈り、百日経ってようやく宮に戻った。
至正二十五年秋七月(1365年)
- 博囉特穆爾が誅された。
- 博囉はかつて疑いから将の保安を殺し、さらに姚巴延を失って気が塞ぎ、日々婁達実らと宴飲して荒淫は度を越え、酒に酔って人を殺し、喜怒は測りがたかった。
- 威順王の子・華善はその無君ぶりを憤ってたびたび帝に言上し、密旨を受けて徐士本と謀り、勇士の上都曼・済諾海・拝達勒らを結んでひそかに刺殺を図った。
- ここに至って托卜堅特穆爾が使者を遣わして上都征伐の勝報を上げてきた。博囉が奏上のため入って延春閣の下に至ったとき、拝達勒が衆の中から躍り出て斬りつけ、脳に当たって死んだ。婁達実は駆け出して博囉の家族を連れて北へ逃げた。詔によりその一党をことごとく殺した。托卜堅は軽装の兵を率いて巴爾斯の地へ走った。朝廷は使者を遣わして博囉の首を箱に納めて冀寧へ送り、太子を京師へ召し戻した。
至正二十五年九月(1365年)
- 庫庫特穆爾が太子に扈従して京師に至り、詔により庫庫を中書左丞相・知枢密院事とした。
- 太子が太原へ奔ったとき、唐の粛宗の故事に倣って自ら立とうとしたが、庫庫特穆爾と布哷斉らは従わなかった。京師に戻ると、皇后の奇氏が旨を伝えて庫庫特穆爾に重兵で太子を擁して入城させ、帝に禅位を迫らせようとした。庫庫特穆爾はその意を知り、京師まで三十里の所で軍を解散させた。これにより皇太子は内心で恨みを抱いた。
至正二十五年十月(1365年)
- 枢密副使の観音努が婁達実を捕らえて誅し、托卜堅特穆爾もまもなく誅された。
至正二十五年閏月(1365年)
- 庫庫特穆爾を河南王に封じ、軍を視るために戻した。
- このとき中原は無事であったが、江淮・川蜀はみな陥落していた。皇太子はたびたび自ら出て軍を督して征討したいと請うたが、帝は難色を示し、庫庫を河南王に封じて代わりに親征させ、関中・陝西・晋・冀・山東の諸道および南方一帯の軍馬を総べさせ、便宜に事を行わせた。庫庫特穆爾は分省を自ら随行させ、その官属の盛んなことは朝廷に等しかった。
至正二十六年二月(1366年)
- 庫庫特穆爾が軍を懐慶に移し、まもなくまた彰徳に移して各地の軍馬を差配した。
至正二十七年(1367年)
- 李思斉・張良弼・図嚕卜が含元殿に会し、李思斉を盟主に推してともに庫庫特穆爾に抗した。
- もともと李思斉は察罕特穆爾とともに義師を起こし、位も年齢も対等であった。ここに至って庫庫特穆爾が代わってその兵を総べたので、思斉は心中穏やかでなかった。そして張良弼がまず命を拒み、孔興・図嚕卜らもみな功を恃んで、それぞれ別に一軍を立てて属さぬことを請うた。
- 庫庫特穆爾は関保と珪林斉に兵を率いて西へ鹿台の良弼を攻めさせたが、思斉が良弼と兵を合わせて争いは収まらなかった。庫庫特穆爾は南征の命を受けながら、かえって彰徳に退いてもっぱら陝西で兵を用いることばかり考えた。これにより朝廷ははじめてその異志を疑った。
至正二十七年秋七月(1367年)
- 皇太子に天下の軍馬を総制するよう詔した。
- 詔の趣旨はおよそ次のとおりである。かつて堤を築き河を決したのは、もともと民を水難から救うためであった。それを妖賊が横しまに訛言を作って愚民を煽り、郡邑をほとんど残らず塗炭に陥れ、海内はこれで十二年を越えた。故察罕特穆爾は義に依って兵を興し、功を献じて敵愾し、汴・洛を掃討して清・済を平定した。その子の庫庫特穆爾はよく先志を継いで大功を成した。皇太子阿裕爾実哩達喇は宗社を安んじる計として、たびたび出師を請うた。朕は国本の重きを思い、庫庫特穆爾に総戎の重任を授けて代わりに行かせた。ところが李思斉・張良弼らがそれぞれ異見を抱いて兵を交えてやまず、そのため盗賊はいよいよ盛んになり、深く朕の憂いとなった。衆に諮ったところ、みな皇太子が旧典に遵って天下の兵馬を総帥すべきだという。庫庫特穆爾は潼関以東で江淮を粛清し、李思斉は鳳翔以西で侯布延達実とともに川蜀を進取し、少保の図嚕および張良弼・孔興・図嚕卜はともに襄陽・樊城を取れ。詔書の到る日、みな心を洗い思いを改めてともに時艱を済え——と。
- 朝廷はたびたび庫庫特穆爾に江淮への出兵を促したが、庫庫はわずかに弟の托音特穆爾と摩該を山東へ遣わしただけで、張良弼との交戦をやめなかった。詔を下して和睦させようとすると、庫庫は使臣を殺し、跋扈の跡が次第に露わになった。朝廷はこれを疑い、それでこの詔が出たのである。
至正二十七年冬十月(1367年)
- 庫庫特穆爾の兵権を解くよう詔した。
- もともと先の詔は下ったものの、皇太子も結局実行せず、兵を分ける命令を庫庫特穆爾は最後まで拒んで受けなかった。そこで摩該・関保らがみな庫庫特穆爾に叛いた。関保は察罕特穆爾の挙兵以来、将として勇は諸軍に冠たり功も最も高く、摩該は兵を論じるのに長けてとりわけ察罕特穆爾に信任されていた。ここに至って二人は庫庫特穆爾に不臣の心があるのを見て叛き、その罪状を列挙して朝廷に届け、兵を挙げてともに攻めた。
- 皇太子は実喇達哩・塔喇実克・巴延特穆爾・李国鳳らの計を用いて撫軍院を立て、天下の軍馬を総制してもっぱら庫庫特穆爾に備えた。摩該は大義を唱えたとして忠義功臣の号を賜り、庫庫特穆爾は太傅・中書左丞相を解かれ、以前どおり河南王として汝州を食邑とし、弟の托音特穆爾とともに河南府に居らせ、従行の官属はみな朝廷へ帰らせることとした。
- 諸軍のうち帳前にある者は白算卓と珪林斉が、河南にある者は李克彞が、山東にある者は伊蘇が、山西にある者は実喇達哩が、河北にある者は摩該が率いることとした。
- 庫庫特穆爾は詔を聞くとただちに軍を退いて沢州へ帰った。詔はさらに図嚕と李思斉・張良弼・孔興・図嚕卜に兵を率いて東へ向かい天討を正すよう命じた。
- 翌年、朝廷は左丞の孫景逸に太原の分省を命じ、関保が兵でこれを守った。庫庫特穆爾はただちに兵を遣わして太原に拠り、朝廷が置いた官をことごとく殺した。皇太子は魏賽音布哈と関保にみな兵を率いて思斉・良弼の諸軍とともに沢州を挟撃させ、さらに詔を下して庫庫特穆爾の爵邑を削り、諸軍にともに誅させた。庫庫特穆爾は平陽へ退いて守り、関保は沢州・潞州の二州に拠って摩該と合流した。
- 当時、李思斉・張良弼・孔興・図嚕卜らは庫庫特穆爾と久しく対峙していたが、明の兵はすでに河南に及んでいた。思斉らはそこで使者を庫庫特穆爾のもとへ遣わし、出兵は本意でなかったと告げ、兵を解いて西の地を大いに掠めて帰った。ただ摩該だけがふたたび平陽を攻めた。
- このころ庫庫特穆爾の気勢はやや沮み、関保と摩該の勢いは甚だ盛んで、しばしば戦いを挑んだが庫庫特穆爾は応じず、あるいは出兵してもすぐ退いた。ある日、摩該が軍を分けて祁県を掠めていると間諜で知り、その夜に出撃してその営に迫って撃ち、大いにその衆を破り、摩該と関保をともに捕らえた。
- 朝廷はこれを聞いてただちに撫軍院を廃し、塔喇実克・巴延特穆爾・李国鳳らは国を誤ったとしてみな誅された。まもなく庫庫特穆爾が上疏して事情を陳べ、朝廷はあらためて詔を下してその前非を洗い流した。
- そのころ明の兵がすでに山東を平定し、河洛・中原もともに守れなくなったと聞き、帝はそこで詔を下して庫庫特穆爾を以前どおり河南王・中書左丞相とし、兵を率いて南下させ、伊蘇の兵を山東へ向かわせ、図嚕を潼関から出し、李思斉を七盤・金州・商州から出して汴・洛の回復を図った。
- まもなく伊蘇の兵は潰え、思斉の兵はついに出ることもなく、庫庫特穆爾もまた平陽から退いて太原を守り、二度と南へ向かおうとしなかった。事はもはやどうにもならなかった。
- やがて明の兵が京師に迫り、帝は北へ奔って国は滅んだ。明の兵が太原に至ると、庫庫特穆爾はただちに城を棄てて逃げ、残った軍を率いて西の甘粛へ奔り、その後の行方は分からない。