元史紀事本末仏教の尊崇(佛教之崇)
元朝が吐蕃の僧・帕克斯巴を国師として蒙古新字を作らせて以来、帝師が一人死ぬごとに西域から後継を迎え、一代を通じて仏教を尊崇し続けた経過。宣政院を立てて吐蕃の軍民を帝師に統べさせ、帝師の命は詔勅と並んで行われた。その徒は権勢を恃んで横暴を極め、嘉木揚喇勒智の宋陵盗掘、僧の官吏殴打や王妃への暴行が赦されるなど弊が重なり、内廷の仏事の費用も年に千万に及んだ。
年表(2件)
- 世祖
- 至元十九年1282年帝師の額琳沁が死に達爾瑪巴拉実哩が跡を継ぐ
- 文宗
- 天暦二年1329年帝師を百官が郊迎するなか富珠哩翀だけが立ったまま礼を執らない
世祖至元十九年(1282年)
- 帝師の額琳沁が死に、達爾瑪巴拉実哩が跡を継いだ。ここに至るまでの経緯は以下のとおりである。
- 吐蕃の人・帕克斯巴は、伝えるところではその祖の多爾済がその法によって国主を助けて西域に覇を唱えて以来、十余世を経ている。帕克斯巴は生まれて七歳で経を数十万言誦し、その大意を要領よく説けたので、国人は聖童と呼んだ。十五歳のとき、まだ即位前の帝に謁見して語り合い、帝は大いに喜び、日ごとに親しみ寵愛した。
- 中統元年、帝が即位すると尊んで国師とし、玉印を授け、蒙古の新字を作らせた。字が成って奉ると、字はわずか千余、母字は四十一である。互いに関連させて綴って字とするには韻関の法があり、二合・三合・四合で字とするには語韻の法があるが、要は諧声を宗とする。
- 至元六年、これを天下に頒行するよう詔した。璽書の頒下にはすべて蒙古新字を用い、それぞれの国字を添えることとした。そこで帕克斯巴の号を進めて大宝法王とした。
- 至元十一年、帕克斯巴は暇を請うて西へ帰り、弟の額琳沁を跡に据えた。至元十六年、帕克斯巴が死ぬと、詔により「皇天之下一人之上宣文輔治大聖至徳普覚真智佑国如意大宝法王西天仏子大元帝師」を贈った。
- 額琳沁が継いでから六年、ここに至って死に、あらためて達爾瑪巴拉実哩が継いだ。これ以後、帝師が一人死ぬごとに必ず西域から一人を迎えて跡を継がせ、元の一代を通じて改まらなかった。
文宗天暦二年(1329年)
- 帝師の輩年札克策喇実が至ると、帝は朝廷の一品以下にみな郊外まで出迎えさせた。大臣たちが平伏して盃を進めても帝師は身じろぎもしなかった。ただ国子祭酒の富珠哩翀だけは盃を掲げて立ったまま進み出て、「帝師は釈迦の徒であり天下の僧の師です。私は孔子の徒であり天下の儒の師です。互いに礼を執らぬことにいたしましょう」と述べた。帝師は笑って立ち上がり、盃を挙げて飲み干した。衆はこれに肝を冷やした。
元代における仏教尊崇の実態
- 元は太祖が北方に興ったころからすでに釈教を尊んでいた。西域を得ると、世祖はその地が広く険しく遠いうえ、風俗が荒々しく闘いを好むので、その人々を柔らげて服させようと考え、吐蕃の地を郡県として官を設け職を分かち、すべて帝師に統べさせた。そして宣政院を立て、その使で第二位の者には必ず僧を充て、帥臣以下も僧俗を並用し、軍民をことごとくその統理下に置いた。こうして帝師の命は詔勅と並んで西方の地に行われた。
- 百年の間、朝廷が帝師を敬い礼して尊信することは至れり尽くせりであった。帝・后・妃・公主までみな戒を受けてこれを拝み、正殿の朝会で百官が列を成しても、帝師は座の隅に別席を占めることさえあった。しかも帝が即位するたび、まず詔を下して褒め護り、必ず章佩監に命じて真珠で字を綴らせて賜った。その重んじようはこのようであった。
- 帝師がまだ到着しないうちから中書の大臣が駅馬で百騎を連ねて迎えに出、通る先々で供応と送迎があり、京師に着けば大府に法駕の半仗を借りて先導させ、省・台・院の官から百司・庶府までみな銀鼠の済遜を着るよう詔した。毎年二月八日の迎仏の威儀をもって出迎え、あわせて礼部尚書・郎中に出迎えの監督を専任させた。
- 帝師が没して舎利を帰葬するときには、また百官に郭外へ出て祭らせた。大徳九年には特に平章政事の特穆爾を遣わして駅馬で護送させ、香典として金五百両・銀千両・幣帛一万疋・鈔三千錠を贈った。皇慶二年にはこれが金五千両・銀一万五千両・錦綺雑綵あわせて一万七千疋にまで増えた。その兄弟や子孫の往来にも有司の供応は欠かさなかった。
- 泰定年間には、帝師の弟の恭噶伊実戩が来るというので、中書に羊と酒を持たせて郊外でねぎらうよう詔した。その兄の索諾木蔵布は公主を娶って白蘭王に封じられ、金印を賜り円符を給された。その弟子で司徒・司空・国公の号を得て金玉の印章を佩びる者が前後に相次いだ。
- その徒たる者は権勢を頼んで思うままに振る舞い、日ごと月ごとに勢いを増し、その気焔は四方に及んで害は数え切れなかった。
- 嘉木揚喇勒智という者は、世祖に江南釈教総統として用いられたが、銭塘と紹興にある宋の趙氏の諸陵およびその大臣の墓を計百十か所も暴き、平民四人を殺し、人から献じられた美女や宝物は数知れず、しかも財物を奪い盗んだ額は、金千七百両・銀六千八百両・玉帯九・大小の玉器百十一・雑多な宝貝百五十二・大珠五十両・鈔十一万六千二百錠・田二万三千畝に及び、私に庇って公賦を納めさせなかった平民は二万三千戸に上った。ほかに隠し持って露見していないものは数に入っていない。
- また至大元年、上都の開元寺の西域僧が民の薪を強引に買い上げようとし、民が留守の李璧に訴えた。璧がその事情を尋ねているところへ、僧はすでに一党を率いて白い棒を持って役所に押し入り、机越しに璧の髪をつかんで地に引き倒し、打ち据えたうえで引きずって帰り、空き部屋に閉じ込め、久しくしてようやく脱出できた。朝廷に駆け込んで訴えたが、赦に遇って罪を免れた。
- 至大二年には僧の龔柯ら十八人が、諸王の哈喇巴爾の妃・呼図克斉徳済と道を争い、妃を車から突き落として殴り、そのうえ上を犯すような言辞まであった。事が奏聞されると、詔により釈して問わないこととされた。しかも宣政院の臣は旨を仰いで、民で西域僧を殴った者はその手を切り、罵った者はその舌を断つと奏した。当時、仁宗は東宮にあってこれを聞き、急ぎ奏してその令を撤回させた。
- 泰定二年、西台御史の李昌が上言した。かつて平涼府・静会・定西などの州を通ったとき、西蕃の僧が金字の図符を佩びて道に絶えず往来し、駆る馬は数百騎に及び、駅舎に入りきらなければ民家を借りて宿り、男を追い立て女を犯していた。奉元一路では正月から七月まで往復が百八十五回、用いた馬は八百四十余匹に上り、諸王や行省の使者に比べて六、七倍も多い。駅戸には訴える先もなく、台憲もどうすることもできない。しかも国家が円符を作ったのはもともと辺防の警報のためである。僧が何の用があって佩びるのか。僧への駅の給付法を改め、あわせて台憲に糾察させていただきたい——と。しかし返答はなかった。
- 必嚕匝納実哩が誅されたとき、有司がその家財を没収すると、人畜・土地・金銀・貨幣・銭・邸宅・書画・器物・玩具から婦人の七宝の装身具に至るまで、値は巨万に上ったという。
- 年中の祝賀や祈祷の常例で「好事」と称するものにも、その名目は一様でない。辰類阿索勒(漢語で慶讚)、斯満拉(薬師壇)、綽克絅(護城)、多爾沁(大施食)、多爾済埓克多爾(美妙金剛廻遮施食)、斉爾多克巴(廻遮)、隆科爾(風輪)、賛多爾(作施食)、楚多爾(出水して六道を済う)、当喇克多爾(廻遮施食)、登多爾(常川施食)、坐静、嚕綽(師子吼道場)がある。
- さらに雅満達噶(黒獄帝主)、吹思絅多爾瑪(護江神施食)、斉特古朗絅(自ら主戒を受ける)、辰類坐静、尼古察坐静(秘密坐静)、札木揚(文殊菩薩)、袞布多爾(至尊大黒神廻遮施食)、赫巴匝爾(大喜楽)、璸匝雅(無量寿)、都克噶爾(白傘蓋呪)、班匝喇克察(五護陀羅尼経)、阿斯達薩達実哩(八十頌般若経)、薩斯納総(大理天神呪)、科爾羅普爾普総(大輪金剛呪)、策巴克黙特総(無量寿経)、斯羅克巴(最勝王経)、薩思納総(護神呪)、納木卓木総(懐相金剛)、卜嚕卜巴(呪法)がある。
- また「攃攃」を作るものがあり、泥で小さな仏塔を作ることである。「多爾康」を作るものもある。多爾康は一か所か二か所から七か所まで作り、攃攃は十万・二十万から三十万も作った。かつて仏塔二百十六基を造って七宝と珠玉を納め、半分を海辺に、半分を水中に置いて海の災いを鎮めたこともあった。
- 延祐四年、宣徽使が毎年の内廷の仏事に供する費用を集計したところ、斤で数えるものとして麪四十三万九千五百、油七万九千、酥二万一千八百七十、蜜二万七千三百であった。
- 至元三十年ごろは醮祠や仏事を行う日はわずか百二日であったが、大徳七年にふたたび功徳司を立ててからは五百余日に増えた。僧徒は利を貪って際限がなく、近侍と結託して欺き偽って奏請し、布施や斎に要するものは一つならず、費用は年に千万に及び、大徳のころに比べて何倍か分からない。
- また毎年必ず「好事」にかこつけて軽重の囚人を釈すよう奏し、それを福利とした。大臣の阿里や閫帥の必実哷勒のような者まで、みなこれに乗じて誅を免れた。宣政院参議の李良弼は賄賂を受けて官を売ったが、帝師の言だけで放免された。その他、人を殺した盗賊や不正を働いた徒でこれに縁って幸いに免れた者は甚だ多い。あるいは空名の宣勅を取って布施とし、その人の任意に任せたのは、まさに濫りというべきである。
- これらはみな一代の治体に関わる事なので、ここに詳しく記した。
- なお天下の寺院で内外の宣政院に属するものには禅・教・律があり、それぞれ本分を守っている。ただ白雲宗・白蓮宗と称するものだけは、かなり不正な利を通じていたという。