元史紀事本末郭守敬と授時暦(郭守敬授時厯)
劉秉忠の改暦の建議を受け、至元十三年に世祖が郭守敬・王恂らに命じて新暦を修めさせ、至元十七年十一月(1280年)に授時暦を頒行するまでと、その後の著述をまとめる。守敬は簡儀・高表をはじめ十三種の儀器を創製し、南海から北海まで四海の観測を行い、冬至・歳余・日躔・月離・入交・宿度・昼夜刻の七事を考正し、太陽の盈縮など五事を創始した。その暦法は九十年を経ても毫の差もないと評された。
年表(1件)
- 世祖
- 至元十七年十一月甲子1280年郭守敬らの新暦を「授時」と名づけて頒行する
世祖至元十七年十一月甲子(1280年)
- 授時暦を施行した。ここに至るまでの経緯は以下のとおりである。
- これより先、至元の初め、劉秉忠が、大明暦は遼・金以来二百年余も用いられて次第に天と合わなくなっているので改暦すべきだと述べた。その議が用いられぬうちに秉忠は没した。
- 至元十三年、江南がおおむね平定されて天下が一つになると、帝はその言を思い起こして新暦の改修を議し、局を立てて事に当たらせた。詔により郭守敬と王恂が南北の日官を率いて観測を分掌し、張文謙と張易がその事を統べ、前中書左丞の許衡も参与した。
儀器の整備
- 守敬は、暦の本は観測にあり、観測の器としては儀と表に勝るものはないと述べた。今の司天の渾儀は宋の皇祐年間に汴京で造られたもので、この地の天度と合わない。南北の二極を比べると約四度の差があり、表石も年を経て傾いている。すべてその誤りを調べて造り替えるべきだとした。
- そのうえで高く乾いた場所を選び、木で重ねた棚を造り、簡儀と高表を創製して比較検証した。
- また、天の枢は極に付いて動くので、昔の人は管を伸ばして望んだが的を得なかったとして候極儀を作った。極の位置が得られれば天体の姿勢も正しく定まるとして渾天象を作った。象は形は似ていても用途に適さないとして玲瓏儀を作ってこれを表した。矩の方形で天の正円を測るのは円で円を求めるに及ばないとして仰儀を作った。古の経緯は結ばれて動かないので、これを改めて立運儀を作った。日には中道があり月には九行があるので、これを合わせて証理儀を作った。表が高いと影が薄れてその像は真でないとして景符を作った。月に明るさがあっても影を測るのは難しいとして闚几を作った。暦法の検証は交会にあるとして日食儀・月食儀を作った。天には赤道があるので輪をこれに当て、両極の高低を標で指すとして星晷定時儀を作った。器は全部で十三である。
- さらに正方案・九表・懸正儀を作った。以上の四種は四方へ出て測る者が用いるものである。また仰規覆矩図・異方渾蓋図・月出入永短図を作った。以上の五種は、先の諸儀と互いに参照するためのものである。
四海の観測
- 至元十六年、局を太史院と改め、王恂を太史令、守敬を同知太史院事とした。守敬は造った儀と表の雛形を御前に進め、その理を一つひとつ余さず説明し、朝から夕まで及んだが帝は倦まなかった。
- そこで守敬は、唐の開元年間に僧一行が南宮説に天下の日影を測らせ、今なお確かめられるものが十三か所ある、今の版図は唐よりさらに広いので、多方面で観測してはじめて日月の交会の分数・時刻の違い、昼夜の長短の違い、日月星辰の天からの高低の違いをあまねく知りうる、と奏した。帝はその奏を裁可し、監候官十四人を置いて道を分けて派遣した。
- まず南北に沿って表を立て影を測った。南海は北極の出地二十五度、夏至の影は表の南に一尺一寸六分、昼五十六刻・夜四十四刻。衡嶽は北極の出地二十五度、夏至は日が表の頂にあって影なし、昼五十六刻・夜四十四刻。嶽台は北極の出地三十五度、夏至の影は一尺四寸八分、昼六十刻・夜四十刻。和林は北極の出地四十五度、夏至の影は三尺二寸四分、昼六十四刻・夜三十六刻。鉄勒は北極の出地五十五度、夏至の影は五尺一分、昼七十刻・夜三十刻。北海は北極の出地六十五度、夏至の影は六尺七寸八分、昼八十二刻・夜十八刻であった。
- 続いて各地を観測した。上都は北極の出地四十三度弱、北京は四十二度強、益都は三十七度弱、登州は三十八度弱、高麗は三十五度弱、西京は四十度弱、太原は三十八度弱、安西府は三十四度半強、興元は三十三度半強、成都は三十一度半強、西涼州は四十度強、東平は三十五度太、大名は三十六度、南京は三十四度太強、陽城は三十四度太弱、揚州は三十三度、鄂州は三十一度半、吉州は二十三度半、雷州は二十度太、瓊州は十九度太であった。
新暦の上奏(考正した七事)
- 至元十七年、新暦が完成し、守敬は諸太史とともに上奏した。その趣旨は次のとおりである。
- 帝王の事で暦より重いものはない。黄帝が日を迎えて策を推し、帝堯が閏月をもって四時を定めて歳を成し、舜が璇璣玉衡によって七政を斉えた。三代に及んでも暦には定法がなく、周秦の間には閏余の順序が狂った。漢に至って三統暦を造り、百三十年で是非がようやく定まった。東漢が四分暦を造り、七十年余で儀式がようやく備わった。さらに百三十一年で劉洪が乾象暦を造り、はじめて月の運行に遅速があることを悟った。さらに百八十年で姜岌が三紀甲子暦を造り、はじめて月食によって月の宿度を検する法を悟った。さらに五十七年で何承天が元嘉暦を造り、はじめて朔・望・弦にみな大小余を定めることを悟った。さらに六十五年で祖沖之が大明暦を造り、はじめて太陽に歳差の数があり、極星が不動の点から一度余離れていることを悟った。さらに五十二年で張子信が、はじめて日月の交わる道に表裏があり五星に遅速・留・逆があることを悟った。さらに三十三年で劉焯が皇極暦を造り、はじめて日の運行に盈縮があることを悟った。さらに三十五年で傅仁均が戊寅元暦を造り、旧儀をかなり採り入れてはじめて定朔を用いた。さらに四十六年で李淳風が麟徳暦を造り、古暦の章・蔀・元首の分度が揃わないので総法を立て、進朔を用いて晦の朝に月が見えるのを避けた。さらに六十三年で僧一行が大衍暦を造り、はじめて朔に四大三小があるとして九服の交食の違いを定めた。さらに九十四年で徐昂が宣明暦を造り、はじめて日食に気差・刻差・時差の三差があることを悟った。さらに二百三十六年で姚舜輔が紀元暦を造り、はじめて食甚の泛余の差数を悟った。以上、合計千百八十二年、暦は七十回改められ、法を創始した者は十三家である。
- そこからさらに百七十四年、我が聖朝が六合を統一し中華を開き、特に臣らに命じて新暦を修めさせた。臣らは新たに創った簡儀と高表を用い、観測した実数に基づいて七つの事を考正した。
- 第一に冬至。丙子年の立冬以後、毎日測った晷影に基づき、冬至の前後で日差の同じものを取って基準とし、丁丑年の冬至が戊戌の日の夜半後八刻半にあることを得た。また丁丑の夏至は庚子の日の夜半後七十刻、戊寅の冬至は癸卯の日の夜半後三十三刻、己卯の冬至は戊申の日の夜半後五十七刻半、庚辰の冬至は癸丑の日の夜半後八十一刻半とした。いずれも大明暦から十八刻を減じたもので、遠近が符合し前後とも基準にできる。
- 第二に歳余。劉宋の大明暦以来、影を測り気を験して冬至の時刻の真数を得たものが六つある。これらを用いて相互の距離を測ればそれぞれの時に適した歳余が得られる。今、四年分を考定して食い違いがなく、宋の大明壬寅年から今日まで八百十年、毎年三百六十五日二十四刻二十五分にあたる。この二十五分が今の暦の歳余に用いるべき数である。
- 第三に日躔。至元丁丑四月丁丑の望の皆既月食を用いて日躔を推算し、冬至の日躔が赤道の箕宿十度、黄道の箕宿九度余であることを得た。あわせて毎日測った太陽の躔度により、星によって月を測り、月によって日を測り、あるいは直接に星の度で日を測って算法を立て、丁丑正月から乙卯十二月まで三年で計百三十四事を得たが、いずれも箕に躔って月食と符合した。
- 第四に月離。丁丑から今日まで毎日測った時刻ごとの太陰の行度を推算し、黄道に換算して入転の極遅・極疾および平行の位置を求めた。前後で十三転、計五十一事のうち、確かでないものを除いて三十事があり、大明暦の入転が天より遅れていることを得た。さらに交食を検証して大明暦に三十刻を加えれば天道と合致することを得た。
- 第五に入交。丁丑五月以来、毎日測った太陰の去極度数を黄道の去極度と比べ、月道が黄道と交わるところを得て計八事を得た。さらに日食法度によって推算するといずれも食分があり、入交の時刻を得たが、大明暦との差はさほど大きくなかった。
- 第六に二十八宿の距度。漢の太初以来、距度は同じでなく増減があった。大明暦は度の下の余分に太・半・少を付けたが、みな私意で辻褄を合わせたもので実測した数ではない。今の新儀はいずれも周天の度分を細かく刻み、一度を三十六分とし、距線で管闚に代えて宿度の余分をすべて実測により、私意で合わせることをしない。
- 第七に日の出入と昼夜の刻。大明暦の日の出入・昼夜の刻はみな汴京を基準としており、その刻数は大都と異なる。今あらためてこの地の北極の出地の高低と黄道の内外への出入の度によって法を立てて推算し、毎日の日の出入と昼夜の刻を求めた。夏至の最も長い日は日の出が寅の正二刻、日の入りが戌の初二刻で、昼六十二刻・夜三十八刻。冬至の最も短い日は日の出が辰の初二刻、日の入りが申の正二刻で、昼三十八刻・夜六十二刻。これを永く定式とする。
創始した五事
- 第一に太陽の盈縮。四正の定気を用いて升降の限を立て、立招差によって毎日の行分を求め、初末の極差と積度は古法より精密である。
- 第二に月の遅疾。古暦はみな二十八限を用いたが、今は一日の一万分のうち八百二十分を一限とし、全部で三百三十六限に分け、垜疊格差によって転分の進退を求めた。その遅疾の度数が時刻ごとに異なるのは、これまでになかったことである。
- 第三に黄赤道の差。旧法は百一度を互いに減じ乗じたが、今は算術の勾股・弧矢・方円・斜直の相容れる関係によって度率・積差・差率を求め、天道と実によく合致する。
- 第四に黄赤道の内外度。累年の実測により内外の極度を二十三度九十分とし、円に方を容れ直矢を勾股に接する法によって毎日の去極を求め、実測と符合した。
- 第五に白道の交周。旧法は黄道から白道に換算するのに斜をもって斜を求めた。今は立渾を用いて比較測量し、月が赤道と正交する点が春分・秋分の黄赤道の正交点から十四度六十六分離れていることを得て、これを法とし、月ごとの交の二十八宿の度分を推算した。理として尽くしている——と。
授時暦の頒行とその後の著述
- この年、詔により新暦を頒行し、「授時」と名づけた。
- 暦はすでに頒行されたが、推歩の式や立成の数はまだ成書になっていなかった。折しも太史(王恂)が没したので、守敬が篇を分類し分秒を整えて、推歩七巻・立成二巻・暦議擬稿三巻・転神選択二巻・上中下三暦註式十二巻にまとめた。
- 至元二十二年、太史令に昇り、その書を奏上した。さらに「時候箋註」二巻・「修改源流」一巻・「儀象法式」二巻・「二至晷景考」二十巻・「五行細行考」四十巻・「古今交食考」一巻・「新測二十八舎雑坐諸星八宿去極」一巻・「新測無名諸星」一巻・「月離考」一巻を作り、いずれも官に収蔵した。
- 古暦では天周と歳周の小余は日の四分の一と同じであった。漢魏以来しだいに揃わないと気づかれ、分を破る議論が起こった。守敬は百年を率として小余の下に各一を増減し、これによって上は往古を推し下は将来を験して符合しないものがなかった。積年・日法・演積分・換算の説はいずれも用いなかった。その作った暦は観測が精密で立法も詳備で、今なお九十年、毫の差もない。
- 旧来の儀器はいずれも遮るものが多く、しかも目盛りに度と刻はあっても細分がなく、管で星を望むと外側ほど像が広がって的を得にくかった。守敬の作った儀は、天常・赤道・四游の三環と三距だけを用い、四游を赤道の上に設け、直距を四游の外に付し、双環の両間と同じく環に結び、距の端で日月星を測るときは二本の線を見通してその正中に当たる刻・度・分・秒を取る。極めて精密である。
- 八尺の表で夏至の影が一尺五寸、千里で一寸の差というのは、周官と周髀に見え、唐の一行も疑ったが改めなかった。守敬は表を古制の五倍にし、上に横梁を渡し、正午ごとに符の孔で横梁の影を挟んで測り、その中数を取った。旧法がただ表の端の影を取ったのに比べ、はるかに精密になった。