元史紀事本末諸儒の出処と学問の概略(諸儒出處學問之槩)

元代の儒者たちの出処進退と学問の系譜を、許衡の没(1281年)から黄沢の没(1345年)まで六十余年にわたって列記する。許衡が朱子の書を持して世祖に仕えて儒者の道の端を開き、劉因・蕭㪺・杜瑛は召されても仕えず、金履祥・許謙は黄榦―何基―王柏の朱学の正嫡を継ぎ、呉澄は草廬先生として千数百人を教えた。陳櫟・胡一桂・胡炳文・黄沢もそれぞれ経学に一家をなした。

年表(9件)

世祖至元十八年三月(1281年)

  • 許衡が没した。衡は国子祭酒を辞して懐孟に帰っていたが、ここに至って病が重くなった。家人が先祖を祀ろうとすると、衡は「私は一日でも生きている限り、自ら祀らずにおれようか」と言い、助け起こされて儀のとおりに供え物を献じた。撤下すると家人が余りを頂き、和やかであった。まもなく没した。享年七十三。
  • 懐の人は貴賤老少を問わずみなその門前で哭し、各地の学士大夫も訃報を聞いてみな位を設けて哭した。
  • 衡はかつて子に「私は生涯、虚名に煩わされて官を辞せずに終わった。死後は決して諡を請うな、碑も立てるな。ただ『許某の墓』の四字を書き、子孫がその場所を知れるようにすればよい」と語った。のちに司徒を贈られ魏国公に封じられ、文正と諡された。

史論(虞集)

  • 南北がまだ一つにならぬころ、許衡はいち早く朱子の書を得て熟読し深く信じ、その説を持して世祖に仕えた。儒者の道が廃れなかったのは、実に衡がその端を開いたのである。

至元十九年十二月(1282年)

  • 処士の劉因を召した。因は字を夢吉といい容城の人である。天賦が人に絶し、日に数千言を記し、目を通せばそのまま暗誦した。
  • はじめ経学を修めて訓詁注釈の説を究めたが、「聖人の精義はこの程度で止まるはずがない」と嘆じた。周・邵・程・朱の書を得ると、一見して「私はもともとこういうものがあるはずだと思っていた」と言った。その学の長ずるところを論じて、「邵は至大、周は至精、程は至正、朱子はその大を極め、その精を尽くし、正をもってこれを貫いた」と述べた。諸葛孔明の「静もって身を修む」の語を愛し、住まいを静修と名づけた。
  • ここに至って博果密の推薦により詔で召され、右賛善大夫に抜擢されたが、まもなく継母が老いていることを理由に辞して帰り、俸給は一切受けなかった。のちにまた集賢学士として召されたが、因は宰相に書を奉って固辞した。帝はこれを聞いて「古に『召されざる臣』というものがあるというが、この人がそれか」と述べ、強いなかった。至元三十年、家で没した。

成宗大徳七年夏四月(1303年)

  • 蘭渓の処士・金履祥が没した。履祥は字を吉父といい、幼くして聡敏、長じては同郡の王柏および何基の門で学んだ。基は黄榦に学び、榦は朱熹から直に伝を受けた人である。
  • 宋が滅びようとすると仕官の志を絶ち、金華山中に隠棲して後学を導き、懇切に倦むことがなかった。何基・王柏の喪に際しては同門の士を率いて義によって服を制し、見る者ははじめて師弟の関係が人倫に関わることを知った。
  • 履祥はかつて、司馬光の資治通鑑に劉恕が外紀を作って前代の事を記したが、経に本づかず諸家の説を信じ、是非が聖人と食い違って信を伝えるに足りないと考えた。そこで邵氏の皇極経世暦と胡氏の皇王大紀の例を用いて増減折衷し、もっぱら尚書を主とし、下は詩・礼・春秋に及び、傍らに旧史や諸子を採って年を表にして事を繋け、唐堯以下から通鑑の前に接続させて一書とし、「通鑑前編」と名づけて門人に授けた。
  • 履祥は「二帝三王の盛時の微言と懿行は後の王が法とすべきものであり、戦国の申不害・商鞅の術、その苛法乱政もまた後の王が戒めとすべきものである。この編を著さぬわけにはいかない」と述べた。
  • 許謙はその「論孟考証」に序して次のように述べた。聖賢の心はすべて四書にあり、四書の義は朱子に備わっている。ただその言葉は簡約で意は広く、読む者はみなその粗きを得るだけで義を究めきれない。あるいは一方に偏った解釈で異を立て、それが朱子の範囲を出ていないことに気づかない。世に朱子を誹り論を乱して新奇を務める者の弊は、まさにここにある。これが金先生の考証が作られた由縁である。私も初め三、四度読んで自ら明瞭になったと思ったが、その後は迷いが絶えず、久しくして得るところがあり、その意がもともと自分の考えと異ならぬと気づいた。さらに久しくして得るところが深まると、自分の考えと合うと思っていたものが初めとは大いに違っていた。幼くして学びながら白髪になってもその要領を知らぬ者がどれほどいるか。安易な心で求めてよいものではない——と。
  • 当時、何基の清廉純朴は尹和靖に似、王柏の高明剛正は謝上蔡に似ると言われた。履祥は二人から直に学んでともに自らのものとした人である。仁山の下に住んだので、学ぶ者は仁山先生と称した。

十二年十二月

  • 処士の蕭㪺を召して太子諭徳とした(原文の紀年。前条の大徳七年に続く記事である)。
  • 㪺は字を惟斗といい陝西奉元の人である。はじめ府の吏となったが上官と話が合わずすぐに退き、南山で読書すること三十年、栄達を求めなかった。博く群書を極め、門下に学ぶ者は甚だ多かった。郷里の人が日暮れに歩いて盗賊に遭い、「私は蕭先生だ」と偽ると、盗賊は驚いて放して去ったという。
  • 世祖のとき陝西儒学提挙に辟されたが赴かず、のち集賢直学士・国子司業を授けられ、集賢侍読学士に改められたが、いずれも赴かなかった。
  • ここに至って召されて太子右諭徳を拝し、病を押して京師に至り、東宮に参内して「酒誥」を書いて献じた。朝廷が当時、酒を尚んでいたためである。まもなく病を理由に職を解くよう請うた。ある人が理由を問うと、「礼では東宮が東面し師傅が西面する。この礼が今行えるだろうか」と答えた。ほどなく集賢直学士・国子祭酒に抜擢され、以前どおり右諭徳を兼ねさせられたが、固辞して帰り、没した。諡は貞敏。
  • 同時代に韓択(字は従善)、侯均(字は伯仁)、同恕(字は寛甫)、恕の弟子の第五居仁(字は士安)がいた。みな奉元の人で、学問と行いによって関中に名を馳せ、学ぶ者が宗とした。

文宗天暦二年春正月(1329年)

  • 緱山の処士・杜瑛に翰林院学士を贈り、文献と諡した。瑛は字を文□といい、先祖は霸州信安の人であったが、瑛の代に河南の緱山中へ移り住んだ。諸書を捜し訪ねてことごとく読んだ。
  • 世祖の中統の初め、詔により懐孟提挙学校官に召されたが赴かず、門を閉じて著述し、道と芸に遊んで生涯を終えた。
  • 著書には「春秋地里原委」十巻、「語孟旁通」八巻、「皇極引用」八巻、「皇極疑事」四巻、「極学」十巻、「律呂律暦礼楽雑志」三十巻、文集十巻がある。
  • 律については、その始まりを究めその義を研き、長短・清濁・周径・積実をそれぞれ類ごとに分け、経史の説を取って裏づけ、その是非を折衷した。
  • 暦については、暦を作る者はみな十一月甲子朔の夜半冬至を暦元とするが、邵子だけは天が子に開くとして、日は甲、月は子、星は甲、辰は子を取って元・会・運・世の数とし、朔虚も閏余もなく、一律に三百六十を一年として天地の盈虚、万物の消長がその中に収まるようにしたと述べた。閉物・開物を論じては、巳に開き戌に閉じる、五は天の中、六は地の中、戊と巳は月の中の星である、とした。また卦を分けて配し年を紀した。金の大定庚寅の年は小過の初六に交わり、本朝の甲寅三月二十三日寅の刻は小過の九四に交わるとした。その説には先儒がまだ説き及ばなかったものが多い。

至順三年六月(1332年)

  • 呉澄が没した。澄は字を幼清といい撫州崇仁の人である。幼くして聖賢の学に力を用いた。
  • かつて説を著して述べた。道の大本は天に出て、神聖がこれを継いだ。堯舜より上は道の元、堯舜より下はその亨、洙泗・鄒魯はその利、濂・洛・関・閩はその貞である。分けて言えば、上古では羲皇が元、堯舜が亨、禹湯が利、文王・武王・周公が貞であろう。中古の統では仲尼が元、顔回・曽子が亨、子思が利、孟子が貞であろう。近古の統では周子が元、程氏・張氏が亨、朱子が利である。では誰が今日の貞であろうか。まだ現れていない。しかし、そのまま帰するところがなくてよいものか——と。このように早くから斯文をもって自らの任としていた。
  • 宋末に進士に挙げられて及第せず、布水谷に隠居して読書し著述して、ついに出仕しなかった。至元年間に召されて京師に至り、官に就けようとされたが母が老いていることを理由に辞して帰った。朝廷は有司に命じてその家で著書を写させ、国子監に置いた。江西儒学副提挙に除せられたが病で去り、まもなく翰林学士となった。泰定年間に病を理由に帰ると、士大夫はみな迎えて教えを請い、各地の士は数千里を厭わず草履を履き笈を負って山中へ学びに来る者が常に千数百人を下らなかった。
  • わずかな暇があれば著述し、臨終まで筆を置かなかった。易・書・詩・春秋・礼記にそれぞれ「纂言」があり、伝注の牽強をことごとく破ってその蘊奥を明らかにし、条を分け筋道を立てて精密簡潔、卓然として一家の言をなした。「学基」「学統」の二篇を作って、学の本と学ぶ順序を人に知らせた。とりわけ邵堯夫と陸子静の学に得るところがあり、「皇極経世書」を校定し、また老子・荘子・太玄経・楽律および八陣図、郭璞の葬書を校正した。
  • はじめ澄の住まいは草屋数間で、程鉅夫が「草廬」と題したので、学ぶ者は草廬先生と称した。享年八十五。没したとき大きな星がその家の東北に落ちた。臨川郡公を贈られ、文正と諡された。

順帝元統二年夏四月(1334年)

  • 休寧の処士・陳櫟が没した。櫟は字を寿翁といい、幼くして非凡な資質があった。宋が滅んで科挙が廃されると、慨然と発憤して聖賢の学に力を尽くし、朱熹を宗とした。延祐の初め、科挙で士を取る詔が下ると、櫟は受験を望まなかったが有司に強いられて受け、及第したものの礼部の試には赴かなかった。家で教授して門を出ないこと数十年、住まいの堂を「定宇」と名づけたので、学ぶ者は定宇先生と称した。ここに至って没した。享年八十三。
  • 掲徯斯はその墓誌に、呉澄と並べて次のように述べた。澄は大都会に住み、たびたび朝廷に登用されたので、天下の学ぶ者が四方から帰した。ゆえにその道は遠くまで届いて顕れ、尊ばれて明らかになった。櫟は万山の間に住み、木石とともに暮らして郷里を出たことがない。ゆえにその学は書が天下に行われてはじめて知られる。しかしいざ行われれば誰もこれを止められない。まさに豪傑の士というべきである——と。世はこれを的確な評だとした。
  • 櫟と同郡に胡一桂・胡炳文がいた。
  • 一桂は字を庭芳といい婺源の人である。もともと徳興の沈貴宝が董夢程に易を受け、夢程は朱熹の易を黄榦から受けていた。一桂の父・方平は貴宝と夢程に従って学び、かつて「易学啓蒙通釈」を著した。一桂の学は方平から出て、朱熹の源流の正しさを得た。著書に「周易本義附録纂疏」「本義啓蒙翼伝」「朱子詩伝附録纂疏」があり、ともに世に行われた。学ぶ者は双湖先生と称した。
  • 炳文は字を仲虎といい、やはり易で一家をなし、「易本義通釈」を作った。朱熹の著した四書にはとりわけ深く力を用いた。余干の饒魯の学はもと朱熹から出たが、その説は熹と食い違うものが多かった。炳文は深くその非を正して「四書通」を作り、およそ言葉が異なって理が同じものは合わせて一つにし、言葉が同じで趣旨の異なるものは分けて弁じ、しばしば説き尽くされていない蘊奥を明らかにした。東南の学ぶ者は、その自号にちなんで雲峰先生と称した。

至正三年冬十月(1343年)

  • 金華の処士・許謙が没した。謙は字を益之といい、父の觥は宋の淳祐七年の進士である。
  • 謙は幼くして父を失い、ものを言えるようになるとすぐ母の陶氏が孝経・論語を授け、耳に入れば忘れなかった。長じて国が滅び家も破れると、自力で学に励み、人から書を借り、四部に分けて読んだ。渉猟は広かったが疑問があっても質す相手がなく、郷里の先生・金履祥が道学の要に深く通じていると聞いて、身を委ねて学んだ。
  • 履祥は謙に「我らの学は理は一つで分は殊なる。理が一つでないことは心配ない。難しいのは分の殊なるところだ」と告げ、また「聖人の道は中というだけだ」と述べた。謙はこれにより分の殊なるところを弁じ分けてその帰するところを理の一に求め、事ごと物ごとに中を求めて用いた。金氏の門に入ったときから聖賢の学を自らの任とし、師弟の間で口授と指示によってその相伝の奥義をすべて得た。履祥の没後、謙はいよいよ拡充して自得するところが多かった。
  • 書は見ないものがなく、聖人の微旨を究め、通じないところがあれば無理に解こうとせず、儒の先達の説で腑に落ちないものにも安易に同調しなかった。天文・地理・典章制度・食貨・刑法・字学・音韻・医経・数術まで貫通しないものがなく、一事一物でも博聞多識の助けとなるものは必ず慎重に記した。異端の説もその蘊奥を洞察した。
  • 学ぶ者を教えるには、人倫に性を立てることを本とし、心術を開き明らかにして気質を変化させることを先とし、己のために学ぶことを心を立てる要とし、義と利を分けることを事を処する則とした。至誠懇切で内外を尽くし、学ぶ者の師となること四十年に及んだ。
  • 部使者はたびたびその行義を朝廷に報告し、郡は茂才に挙げ、また遺逸として挙げて詔に応じさせようとしたが、みな固辞した。江浙の郷試で文衡を執るよう請われたことがあるが、これも辞して就かなかった。
  • 著述は甚だ多く、とりわけ易に深かった。かつて「伏羲の経は広大にして悉く備わる。文王・周公・孔子の詞はその伝注であり、六爻の義はただ大綱と例を挙げたにすぎない」と述べた。学ぶ者は白雲先生と称した。のち文懿と諡された。

史論(王褘)

  • 堯・舜・禹・湯・文・武・周公と相伝えられた道は孔子に至ってその大成を集めた。宋の周氏・程氏が起こってふたたびこの道の統を継ぎ、道南の学は楊時から一、二度伝えられて羅従彦・李侗となり、朱熹に至ってまたその大成を集めた。
  • しかし孔門の多くの弟子のうち、その宗を得たのは曽氏の伝だけである。曽氏はその伝を子思に伝え、子思は孟子に伝え、一つに正から出た。朱氏の門下も多かったが、その宗を得たのは黄榦だけである。榦は何基に伝え、基は王柏に伝え、柏の伝は金履祥・許謙となった。その授受の淵源は、一台の車を御して大道を行くようであり、一本の籥を執って衆音を節するようである。統緒を推し尋ねれば必ずこの四氏を朱学の正嫡とせざるをえない。なんと一つに正から出て、これほど純粋であることか。
  • 程氏の道は朱氏に至ってはじめて明らかになり、朱氏の道は金氏・許氏に至っていよいよ顕れた。百年来の学ぶ者に宗とすべきものを与え、異説に流されず学術が必ず一つに帰するようにしたのは、この道に功があったというべきである。
  • おおむね儒者の功で経を治めることより大きなものはない。経とはこの道を載せるものである。経に功があることは、すなわち道に功があることである。金氏・許氏が経を治めたその力は至れり尽くせりであった。この道に功があったといって、なぜいけないことがあろうか。

至正五年十二月(1345年)

  • 資州の処士・黄沢が没した。沢は字を楚望といい、生まれつき非凡な資質があり、若くから経に明らかになり道を学ぶことを志した。苦思することを好み、久しくして得るところがあり、「顔淵仰高鑽堅論」を作った。
  • 大徳年間、江西行省がその名を聞いて江州の景星書院の山長に任じた。久しくして洪州の東湖書院の山長ともなり、学ぶ者はいよいよ多くなった。任期が満ちるとそのまま帰り、門を閉じて弟子を教え、二度と仕官を口にしなかった。
  • 沢はかつて、聖人の世を去って久しく経籍は欠け、伝注の家はおおむね牽強付会が多く、近世の儒者もそれぞれ才識で解こうとするので、議論は多くとも経の趣旨はいよいよ晦くなる、必ず誠を積んで精を研き、悟入するところがあってはじめて聖人の本当の姿を窺えると考えた。
  • そしてついに経伝の趣旨をことごとく悟った。自ら言うには、いつも静かで寂しいとき、あるいは困窮や流離、病で心細いときに得られたという。久しくすると豁然としてすべてが貫通し、六経の伝注の誤りや未解決の疑問で、数十年苦思して通じなかったものがみな氷が解けるように分かった。「十翼挙要」「三伝義例」「翼経罪言」を作った。
  • 呉澄はその書を見て、生涯に会った経学の士でこれに及ぶ者はいないとし、人に「楊墨を斥けることのできる者は聖人の徒である。楚望こそまさにその人ではないか」と語った。
  • しかし沢はもとより慎重で、軽々しく人に語らなかった。李泂が使いの途中で九江に立ち寄り、北面して弟子となり一経を授かりたいと願い、その家の生計も面倒を見ようと申し出た。沢は謝して「君の才ならどの経を明らかにできぬことがあろう。しかしそれは筆で義を授けるだけのことだ。私の場合は艱難辛苦の末にようやく見えてきたのだ。私は邵子ではないから、二十年の林下の暮らしを君に求めることはできない」と述べ、泂は嘆息して去った。
  • ある人が、そのように自ら閉ざしていて伝わらなくなる恐れはないかと問うと、沢は「我が道の興廃は上は天運に関わる。どうして人の力でどうにかなるものか」と答えた。門人では新安の趙汸だけが高弟で、とりわけその春秋の学を多く得た。