元史紀事本末黄河の治水(河源の探索を付す)(治河(窮河/源附))

世祖期から順帝末まで、黄河の決壊とその治水の記録。汴梁・蒲口・陽武・白茅などで決壊が絶えず、尚文は塞がぬ策を説いたが容れられなかった。至正十一年(1351年)、丞相托克托は成遵の反対を退けて賈魯を起用し、兵民十七万を発して故道二百八十里を復し、龍口を合わせた。しかし黄陵岡から一つ目の石人が出て汝寧・潁州の兵が起こり、治河の役が乱の端緒とされた。あわせて世祖が都実に探らせた河源の記事を付す。

年表(21件)

世祖至元三十三年十月

  • 黄河が開封の祥符・陳留・杞・太康・通許・鄢陵・扶溝・洧川・尉氏・陽武・延津・中牟・原武・睦州の十五か所で決壊し、民夫二十万余を調発して分担して堤防を築かせた(原文の紀年。至元に三十三年はなく、二十三年〈1286年〉にあたるとみられる)。

至元二十五年五月(1288年)

  • 黄河が汴梁で決壊し、太康・通許・杞の三県、陳州・潁州の二州がみな被害を受けた。

成宗元貞元年七月(1295年)

  • 黄河が把県の蒲口で決壊した。これより先、河が汴梁で決壊し、丁夫三万を発して塞いだが、ここに至って蒲口がまた決壊した。そこで廉訪使の尚文に地形を検分させ、長く益となる策を立てさせた。
  • 尚文は次のように述べた。長河は万里を西から来て、その勢いは激しい。盟津から下は土地が平らで土が粗く、流路が定まらず、禹の故道を失って中国の患いとなってから幾千百年になるか分からない。古来、河を治めるには、処置が適切なら力は少なくて済み患いも遅く、処置を誤れば力は多くかかり患いも早い。これは変わらぬ定論である。
  • 今、陳留から睢に至る東西百余里、南岸の旧河口十一のうち、塞がったものが二、自然に涸れたものが六、川に通じているものが三である。岸は水面より六、七尺あるいは四、五尺高い。北岸の旧堤は、水が田より三、四尺高い所もあれば高低が同じ所もある。おおむね南が北より八、九尺高い。それでは堤が壊れず水が北へ行かぬはずがない。
  • 蒲口は今、千歩余にわたって決壊し、激しく東へ流れて旧河床を二百里得て、帰徳の横堤の下でまた本流に合している。無理に塞き止めれば、上で決壊し下で潰れて工事は成らない。
  • 今の計としては、河西の郡県は水の性に順って遠くに長い垣を築いて氾濫を防ぎ、帰徳・徐州・邳州の民には氾濫を避けて安全な地へ移ることを許し、被害に遭った家には河南の退灘地の中から相応の土地を与えて永業とすべきである。他の場所で決壊した場合も同様にすればよい。これも一時の救難の良策である。蒲口は塞がぬ方がよい——と。
  • 当時、河朔の郡県および山東の憲部は争って、塞がなければ河北の桑田はことごとく魚鼈の住処になる、塞ぐ方がよいと述べ、帝はこれに従った。しかしその後も蒲口はたびたび決壊し、堤防を塞ぐ役が絶えた年はなく、水が北へ入って河が故道に戻ったのは、結局は尚文の言のとおりであった。

成宗元貞二年七月(1296年)

  • 汴梁などで大雨があり、黄河が決壊して帰徳の数県の田畑・家屋・作物が流された。詔により田租を一年免じ、尚書の諾海、御史の劉賡らを遣わして塞がせた。蒲口から着手して計七十六か所を築いた。

成宗大徳十年正月(1306年)

  • 河南の民十万を発して河の防を築かせた。

武宗至大二年七月(1309年)

  • 黄河が帰徳で決壊し、また封丘でも決壊した。

仁宗皇慶二年六月(1313年)

  • 黄河が陳州・亳州・睢州の三州および開封・陳留などの県で決壊し、民の田畑・家屋が水没した。

泰定帝泰定二年二月(1325年)

  • 河水がたびたび決壊するので、汴梁に行都水監を立て、古法に倣って防備させ、あわせて河沿いの州県の正官にみな河防の事を兼掌させた。

泰定二年五月(1325年)

  • 黄河が汴梁で溢れた。

泰定二年七月(1325年)

  • 黄河が陽武で決壊し、民家一万二千五百余戸が流された。まもなく楽利堤も壊れ、丁夫六万四千人を発して築かせた。

泰定三年四月(1326年)

  • 夏津・陽武の河堤三十三か所を修理し、丁夫七千五百人を動員した。

順帝至元元年十二月(1335年)

  • 黄河が封丘で決壊した。

至正四年正月(1344年)

  • 黄河が曹州で決壊し、丁夫一万五千八百を発して修築した。同月、河はまた汴梁でも決壊した。

至正四年五月(1344年)

  • 大雨が続き、黄河が溢れて平地で水深二丈に達し、白茅堤・金堤が決壊して曹州・濮州・済州・兗州がみな被災した。

至正四年十月(1344年)

  • 黄河・淮河の堤堰の修築を議した。

至正五年七月(1345年)

  • 黄河が済陰で決壊した。

至正八年二月(1348年)

  • 鄆城に行都水監を立て、賈魯を大監とした。魯は河道を調べ地形を検分して要害を把握し、図を作って二つの策を上申した。一つは北堤を修築して横溢を制するもので工事は省ける。もう一つは疏通と塞き止めを併せ行い、河を東へ導いて故道に復するもので、工事量は数倍になる。折しも魯が中書右司郎中に転じ、実施されなかった。

至正九年正月(1349年)

  • 山東・河南などに行都水監を立て、もっぱら河の患いに当たらせた。

至正九年五月(1349年)

  • 白茅の河が東へ沛県に注ぎ、大きな水浸しとなった。

至正十一年四月(1351年)

  • 黄河の故道を開いた。
  • もともと黄河が決壊したとき、丞相の托克托が群臣を集めて廷議したが、意見は人ごとに異なった。賈魯はあらためて前の議を述べ、必ず北の河を塞ぎ南の河を疏通させて故道に復さねば、大がかりに工事を興さない限り害は止まないとした。
  • そこで工部尚書の成遵と大司農の図嚕を遣わして河を巡視させ、疏通と塞き止めの方策を議して報告させた。遵らは済州・濮州・汴梁・大名と数千里を巡り、井を掘って土地の高低を測り、岸を測って水の深浅を究め、広く世論を採ったうえで、河の故道は断じて回復できないとした。あわせて「山東は連年の飢饉で民は生きるすべもない。ここに二十万の衆を集めれば、後日の憂いは河の患いより重いものになりかねない」と述べた。
  • 托克托は先に賈魯の言を容れており、遵らの議を聞いて怒り「汝は民が反乱すると言うのか」と述べた。辰から酉まで論じ合ったが、ついに容れられなかった。翌日、執政が遵に「河を修める役は丞相の意がすでに決まっており、責任を負う者もいる。公は多言せず、どちらとも取れる議にしてもらいたい」と言うと、遵は「腕は断てても議は変えられぬ」と答え、河間塩運使に出された。
  • 詔により黄河の故道を開き、賈魯を工部尚書兼河防使として、河南北の兵民十七万を発した。黄陵岡の南から白茅に達し、黄固・哈済などの口に放ち、また黄陵の西から楊清村に至って故道に合わせた。全長二百八十里、着工から五か月で諸埽と堤が完成し、河は故道に復した。
  • 魯は特に集賢大学士に任じられ、金帯と銀幣を賜った。詔により托克托に世襲の達爾罕の号を賜り、淮安路をその食邑とし、河平の碑を立てさせた。都水監や有司の官もみな功により昇進・褒賞を受けた。
  • これより先、河南北に「石人の一つ目、黄河を掘り起こして天下は反す」という童謡があった。魯が河を治めると、果たして黄陵岡から一つ目の石人が出て、汝寧・潁州の兵が起こった。
  • 当時、翰林学士承旨の欧陽玄に河平の碑を撰させた。碑が成ると、玄はさらに、司馬遷や班固が河渠・溝洫を記したものは治水の道を載せるだけでその方法を述べておらず、後世の任に当たる者が拠るべきものがないと考え、魯に方略を尋ね、往来の人に問い、吏の文書に照らして「至正河防記」を作り、後世に河の患いに遭う者が参照できるようにした。その説は次のとおりである。
  • 河を治めるといっても、疏・濬・塞の三つがあり、それぞれ異なる。河の流れを分けて導くのを疏、河の淤みを除いて深くするのを濬、河の暴威を抑えて押さえ込むのを塞という。
  • 疏と濬にはさらに四つの別がある。生地・故道・河身・減水河である。生地には直と紆があり、直に沿って掘れば故道に達しうる。故道には高低があり、高い所を平らにして低い所へ向かわせ、高低を近づければ、高い所は塞がらず低い所は溜まらない。塞がれば潰え、溜まれば埋まるのを慮るからである。河身は水が通っていても幅に広狭がある。狭ければ水を受けきれず溢れて激しくなるので、狭い所は工夫して広げる。広ければ岸が保ちにくく崩れやすいので、広い所は工夫して防ぐ。減水河は、水が広がって放縦になればその狂いを制し、水が突き崩せばその怒りを殺ぐためのものである。
  • 堤を治めるにも、創築・修築・補築の名があり、刺水堤・截河堤・護岸堤・縷水堤・石船堤の別がある。
  • 埽を治めるにも、岸埽・水埽があり、龍尾・欄頭・馬頭などの埽がある。埽台を作り、埽を巻き牽き制し埋め掛ける法があり、土・石・鉄・草・木・杙・絙を用いる方法がある。
  • 河を塞ぐにも、缺口・豁口・龍口がある。缺口はすでに川となったもの、豁口は以前に水が突き破った所で、水が退けば口は堤より低く、水が漲れば口から溢れる。龍口は水が集まる所で、新河から故道へ注ぎ込む合流点である。この他は書き尽くせない。
  • 故道の浚渫は深さも幅も一様でなく、全長二百八十里百五十四歩余であった。工事は白茅から始めて長さ百八十二里、続いて黄陵岡から南白茅まで生地十里を開き、口は当初、幅百八十歩・深さ二丈二尺、以下は幅百歩で、高低を平均して深さ二丈で泉に達した。ここでいう「停」「折」は古の算法で、一方から他方を推して勢いの高低を測り、均して平均を取ることである。
  • 南白茅から劉荘村まで故道に接する十里は、平均で幅八十歩・深さ九尺。劉荘から専固まで百二里二百八十歩は、平均で幅六十歩・深さ五尺。専固から黄固まで生地八里を開き、上面の幅百歩・底の幅九十歩、高低を平均して深さ一丈五尺。黄固から哈済口まで五十一里八十歩は、平均で幅六十歩・深さ五尺であった。
  • 次に凹里の減水河を治め、全長九十八里百五十四歩とした。凹里減水河の口の生地は長さ三里四十歩、上面の幅六十歩・底の幅四十歩・深さ一丈四尺。凹里の生地から下の旧河身、張賛店までは長さ八十二里五十四歩で、上の三十六里は幅二十歩・深さ五尺、中の三十五里は幅二十八歩・深さ五尺、下の十里二百四十歩は幅二十六歩・深さ五尺。張賛店から楊青村まで故道に接する生地十三里六十歩は、上面の幅六十歩・底の幅四十歩・深さ一丈四尺であった。
  • 専固の缺口を塞ぐには三重の堤を築き、あわせて凹里減水河の南岸の豁口を補築した。全長二十里三百十七歩である。河口の前に創築した第一重の西堤は南北の長さ三百三十歩、上面の幅二十五歩・底の幅三十三歩で、杭と杙を打ち込み、土牛・草・葦・稍を混ぜて詰め、高さ一丈三尺とした。堤の前には龍尾大埽を置いた。龍尾とは、大木を伐って枝ごと堤の脇に繋ぎ、水の上下に従わせて岸を噛む波を破るものである。
  • 第二重の正堤を築き、両端の旧堤を補って全長十一里三百歩。缺口の正堤は長さ四里、二つの堤が接する旧堤には杭を打って塞ぎ、河身の長さ百四十五歩に土牛・草・葦・稍・土を混ぜて修築し、底の幅三十歩・高さ二丈とした。岸の上の土工で築いたものは長さ三里二百十五歩余、高さ幅は一様でなく、通じて高さ一丈五尺。旧堤を補築したものは長さ七里三百歩、表裏を七歩ずつ厚くし、低い所を六尺かさ上げして高さ一丈とした。
  • 第三重の東の後堤を築き、旧堤に接続して修め、高さ幅は一様でなく全長八里。凹里減水河の南岸の豁口四か所を補築し、杭木・草・土を混ぜて長さ四十七歩とした。
  • こうして黄陵の全河を塞ぐため、水中および岸の上に堤を修めること長さ三十六里百三十六歩。大堤で水を刺すもの二つ、長さ十四里七十歩。その西にさらに水を刺す大堤一つ、長さ十二里百三十歩を作った。うち岸の上に創築した土堤は、西北の李八宅の西堤から東南の旧河岸まで長さ十里百五十歩、頂の幅四歩・底の幅はその三倍・高さ一丈五尺。さらに旧河岸から入水堤まで長さ四百二十歩、底の幅三十歩、頂は六分の一を減じた。
  • 水中に入る西岸の埽堤を修めるのと並行し、西の埽を作ったのは霊武から徴した夏人の水工、東の埽を作ったのは近畿から徴した漢人の水工である。その法は、竹の籠に小石を詰め、埽ごとに大きさを変える。蒲や葦で編んだ径一寸ほどの綿腰索を縦に敷き、幅一、二十歩・長さ二、三十歩ほどとする。さらに埽を曳く径三寸か四寸・長さ二百尺余の索を横に敷いて交互にし、さらに竹・葦・麻・檾で作った長さ三百尺の大縄を管心索とし、綿腰索の端をその上に結ぶ。
  • 草を数千束から万余束まで綿腰索の上に均等に厚く敷き、丁夫数千が足で踏み固めて巻き上げる。やや高くなると水工二人がその上に立って衆を励まし、声を揃えて力を合わせ、大小の推梯を用いて巻いて埽を作る。高さ長さは一様でなく、大きいものは高さ二丈、小さいものでも一丈余を下らない。
  • さらに大索を五本ほど繋いで接索とし、河辺まで運ぶ。屈強な丁夫を選んで管心索を操らせ、埽に沿って立って踏み、あるいは台の中の鉄猫や大杙に掛けて、少しずつ吊り下ろして水に入れる。埽の後ろには地を掘って渠を作り、管心索を渠に沈め、散らした草で厚く覆って土で築き固める。その上にさらに土牛・雑草・小埽・稍・土を、多寡厚薄に応じて順に積み重ねて埽台を作り、上下を牽制して緻密堅固にし、互いに掎角の勢いをなさせ、埽が動揺しないようにする。日中で足りなければ火を灯して続ける。
  • 積み終わればまた同じ法で埽を巻き、先に沈めた埽の上に重ねる。水の深浅を測って埽の厚薄を決め、多くても四埽までとする。二つの埽の間には竹の籠を置く。高さ二丈または三丈、周囲四丈五尺で、小石と土牛を詰め、満ちたら竹の縄で縛る。その両脇の埽に沿って大杭を密に打ち込み、竹籠の上の大竹の腰索を杭に結ぶ。東西の埽とその間の竹籠の上に、草や土などで埽台を築き、長さおよそ五十歩か百歩とする。
  • さらに埽を下ろすときは、長さ八百尺か五百尺の竹索または麻索を一、二本、他の管心索の間に混ぜて配し、水中に入れたのち、残りの管心索は前と同じく埋め掛け、管心の長索を五、七十歩の外まで遠く置いて、鉄猫か大杭で曳いて繋ぐ。こうして数日分の埽をまとめて束ね、さらに草や土などで全体を修めて堤とする。また龍尾大埽を護堤の大杭に密に掛けて水勢を分け折る。その堤は長さ二百七十歩、北の幅四十二歩・中の幅五十五歩・南の幅四十二歩、頂から底まで高さ三丈八尺であった。
  • 截河大堤は高さ幅が一様でなく、長さ十九里百七十七歩。うち黄陵の北岸にあるものは長さ十里四十一歩。岸の上の土堤は西北の東西旧堤から東南の河口まで長さ七里九十七歩、頂の幅六歩・底はその倍に二歩を加え、高さ一丈五尺。水中に入る部分は土牛・小埽・稍・草・雑土を多寡厚薄に応じて修め重ね、竹籠を下ろし大杭を据え龍尾埽を繋ぐこと、前の両堤の法と同じである。ただし埽台を積むには白闌と小石を加えて用いた。埽の上および前方に作った埽堤一つは長さ百歩余で、龍口の少し北まで達し、欄頭の三埽を並べた。
  • 埽の大堤は幅が刺水の二堤と異なる。前列の四埽を管で結んで一つの大堤とし、長さ二百八十歩。北の幅百十歩、頂から水面まで高さ一丈五尺、水面から底まで二丈五尺、通じて三丈五尺。中流の幅八十歩、頂から水面まで一丈五尺、水面から底まで五丈五尺、通じて七丈であった。
  • あわせて縷水の横堤を創築した。一つは東を北の截河大堤に起こし西を西の刺水大堤に接し、もう一つは東を中の刺水大堤に起こし西を西の刺水大堤に至らせ、全長二里四十三歩、いずれも頂の幅四歩・底はその三倍・高さ一丈二尺である。
  • 黄陵の南岸を修めること長さ九里百六十歩。うち岸の上に創築した堤は東北の新たに補った白茅の旧堤から西南の旧河口まで、高さ幅は一様でなく長さ八里二百五十歩。そこから水中に入って石船の大堤を作った。
  • 秋八月二十九日乙巳、故河に水を通した。先に修めた北岸の西・中の刺水堤および截河堤の三堤はまだ短く、水を制する力が足りなかった。決壊した河の勢いは大きく、南北の幅は四百歩余、中流の深さは三丈余で、そこへ秋の増水が加わって水量は故河の十分の八に及んだ。二つの河が流れを争い、故河の口の近くでは水が岸を削って北へ回り、渦を巻いて激しく、埽を下ろしにくかった。しかも埽を下ろすのが遅れれば、水がすべて決壊した河へ湧き入って故河を淤ませ、これまでの功が台無しになる恐れがあった。
  • そこで魯は水を故河へ入れる方策を練り、九月七日癸丑、流れに逆らって大船二十七艘を並べ、前後を大きな帆柱または長い杭で連ね、太い麻索と竹縄で絞り縛って一つの方舟とした。さらに麻索と竹縄で船体を上下に巻き付け、破れぬよう固めた。そのうえで鉄猫を上流に沈めて錘とし、また長さ七、八百尺の竹縄を両岸の大杙に結び、一本の縄で二艘か三艘を吊って流れないようにした。
  • 船底には草をざっと敷いて小石を満載し、合子板を釘で打ち合わせ、さらに埽を合子板の上に二重三重に密に敷き、大麻索で縛った。急いで横木三本を帆柱に縛り、その頭を索で繋ぎ、竹で編んだ笆に草と石を挟んで帆柱の前に立てた。長さ一丈余で「水簾」という。帆柱を木で支えて簾が倒れぬようにした。
  • そのうえで手練れの水工を選び、船ごとに二人が斧と鑿を持って船首と船尾に立った。岸の上で太鼓を合図とし、鼓が鳴ると一斉に穿った。まもなく舟に穴が空いて水が入り、そのまま沈んで決壊した河を塞き止めた。水は怒って溢れ、故河の水は急に増したので、ただちに水簾を替え、後ろに小さな帰・土牛・白闌・長い稍に草や土を混ぜ、状況に応じて積み上げて続けた。石を積んだ船が沈んで底に達し、水の上に基礎が現れて次第に高くなると、また大埽を巻いて上から押さえた。前の船の位置がおよそ定まると、同じ方法で残りの船を沈めて仕上げた。昼夜を分かたず、人夫は交代で働き、少しの中断もなく甚だ苦しんだ。
  • 船の堤ができた後、草の埽三道を同時に施し、中間に石を詰めた竹籠を置き、埽に沿って杭を打ち纜を繋いだ。四埽と籠の扱いは北の截水堤を修めた法と同じだが、中流は水深が数丈あるため、用いた資材の量も工事の規模も他の堤の数倍であった。
  • 船の堤は北岸まで三、四十歩しかなく、勢いが迫って東の河の流れは天から降るように急で、深浅も測りがたかった。そこでまず高さおよそ二丈の大埽を四つか五つ沈め、ようやく水面に出た。河口まで一、二十歩のところが最も難しく、龍口に近づくと轟音とともに激流が埽の基礎を揺るがし、陥没して傾いた。見る者はたちまち足が震え、衆議は沸き立って合わせるのは無理だと言った。しかし勢い上やめるわけにいかず、魯は顔色も変えず、機転よく手を打ち、官吏と工夫十余万人を励まし、日ごとに懇切に諭したので、衆はみな感激して働いた。
  • 十一月十一日丁巳、龍口はついに合わさり、決壊した河は流れを絶ち、故道は再び通じた。
  • さらに堤の前に欄頭の埽を各一道、多い所では三、四道巻いた。前の埽が水上に出ると、管心の大索を前の埽に結んで後ろの欄頭埽の後方に錘とし、後ろの埽の管心大索も小埽に結んで前の欄頭埽の前方に錘とし、前後を繋ぎ止めて勢いを固めた。さらに索が交わる所と二つの埽の間を土・石・白闌・土牛・草土を半々にし、厚薄多寡を勢いに応じて配して押さえた。
  • 埽の堤ができると、南岸からも堤を一つ修めて、すでに閉じた龍口まで長さ二百七十歩とした。船の堤四道には、農家の場圃で用いる轆軸という具を使い、石に穴を空け木を櫛の歯のように立てて前の埽の脇に埋め、一歩ごとに轆軸を一つ置き、横木をその後ろに貫いた。さらに石に穴を空けて径二寸余の麻索を通し、横木に結んで龍尾大埽を密に掛け、夏秋の増水や冬春の氷が岸に力を及ぼさぬようにした。
  • この堤は北岸の截河大堤に接して長さ二百七十歩。南の幅百二十歩、頂から水面まで高さ一丈七尺、水面から底まで四丈二尺。中流の幅八十歩、頂から水面まで一丈五尺、水面から底まで五丈五尺、通じて高さ七丈四尺であった。南岸の護堤埽一道は全長百三十歩、南岸の護岸馬頭埽三道は全長九十五歩である。
  • 北岸の堤防の修築は高さ幅が一様でなく、全長二百五十四里七十一歩。白茅の河口から板城まで旧堤を補築して長さ二十五里二百八十五歩。曹州の板城から英賢村などは高さ幅が一様でなく長さ百三十三里二百歩。稍岡から錫山県までは旧堤の倍に増して長さ八十五里二十歩。帰徳府の哈済口から徐州路まで三百里余は缺口百七か所を修復し、高さ幅は一様でなく、積算して二里二百五十六歩。亦思刺店の縷水月堤は高さ幅が一様でなく長さ六里三十歩であった。
  • 用いた資材は、杭木のうち大きなもの二万七千、楡・柳の雑稍六十六万六千、枝と根株の付いたもの三千八百、藁・桔・蒲・葦・雑草は束で七百十三万五千余、竹竿六十二万五千、葦席十七万二千、小石二千艘分、大小の縄索五万七千か所、沈めた大船百二十、鉄纜三十二、鉄猫三百三十四、竹の篾は斤で十五万、錘石三千塊、鉄鑽一万四千二百余、大釘三万三千二百三十二。そのほか木龍・蚕椽木・麦稈・扶杭・鉄叉・鉄吊枝・麻搭・火鈎・汲水器・貯水器などにもそれぞれ定数があった。
  • 官吏の俸給、軍民の衣糧・工賃・医薬・祭祀・賑恤、駅の馬、竹木の運搬・船の沈設・渡船・杭打ちなどの工賃、鉄・石・竹・木・縄索などの職人の手間賃、あわせて河のために民の土地を買い上げた代価や雑物の代価まで合計すると、中統鈔で百八十四万五千六百三十六錠余であった。
  • 魯はかつて、水中の工事は土工より難しく、中流の工事は河辺の工事より難しく、決壊した河口は中流よりさらに難しく、北岸の工事は南岸より難しいと述べた。また資材の効用として、草は極めて柔らかいが柔らかいからこそ水になじみ、水に浸ると泥を生じ、泥と草が合わされば錨のように重くなる、纜や索を支え助ける功は実に大きいとした。魯がこの事に習熟していたからこそ、その功はこれほどのものとなったのである。
  • 欧陽玄はこの記の最後に、この役では朝廷が費用を惜しまず高い爵位を惜しまず民のために害を除いた、托克托は上意を体して労苦を厭わず浮薄な議論に動じず国のために民を救った、賈魯は心思と知略の巧みを尽くし精神と胆気の壮んなるに乗じ、労苦を惜しまず批評を恐れず、君と宰相の人を見る明に報いた、これらはことごとく書き記して史を職とする者の考証に供すべきである、と述べている。

史論(史臣)

  • 論者はしばしば、天下の乱はすべて賈魯の治河の役が民を労し衆を動かした結果だという。しかしそれは、元が滅んだのは紀綱が緩み風俗が薄っぺらになったからで、乱に至る階梯は一朝一夕にできたものではないことを知らない議論である。もし魯がこの役を興さなかったとして、天下の乱が起こらずに済んだであろうか。

至正二十六年二月(1366年)

  • 黄河が北へ移った。これより先、河が小流口で決壊して清河に達し、民家を壊し作物を傷めた。ここに至ってまた北へ移り、東明・曹州・濮州から済寧に至るまで、民はみな被害を受けた。

河源の探索

  • 河の源は古くは知られていなかった。禹貢は河を導くのを積石から始めるにすぎない。漢の使者・張騫は節を持って西域に赴き、玉門を越えて二つの水が交わり流れるのを見た。葱嶺に発して于闐へ向かい、塩沢に集まり、千里を伏流して積石でふたたび現れるという。唐の薛元鼎は吐蕃に使いして河源を訪ね、穆穆哩山でこれを得たという。
  • しかしいずれも歳月を費やし艱難を経て、得たものはこの程度であった。世に河源を論じる者はみなこの二家を本とするが、その説は奇怪で迂遠で、要するにいずれも真実ではない。思うに漢唐の時には地方がまだすべて臣従せず道も通じていなかったので、往くたびに迂回して険阻に阻まれ、その場所へ直行して究めることができなかったのである。
  • 元は天下を有し、海の内外に人の足跡の及ぶ限り駅伝を置いたので、使者の往来は国内を行くようであった。至元十七年、都実を招討使に任じ、金の虎符を佩びさせて河源を求めさせた。
  • 都実は命を受け、その年に河州に至った。州の東六十里に寧河駅があり、駅の西南六十里に殺馬関という山がある。林と麓が高く狭く、一歩ごとに高くなり、一日で頂に至った。西へ行くほど高くなり、四か月を経てようやく河源に至った。その冬に帰って報告し、あわせてその地の配置を図に描いて奏した。
  • その後、翰林学士の潘昂霄が都実の弟・庫庫楚からその説を得て「河源志」を撰した。臨川の朱思本もまた巴爾済蘇の家から帝師が蔵していた梵字の図書を得て漢文に訳し、昂霄の志と互いに詳略があった。今、二家の書を取って説を考定し、異なるものは注として下に付す。
  • 河源は吐蕃の朶甘斯の西の辺境にあり、泉が百余り湧いて散り広がり、近づいて見ることができない。おおよそ七、八十里四方で、高い山に登って見下ろすと星を並べたように輝く。それゆえ鄂端諾爾という。鄂端とは星宿の意である。
  • 諸流が集まって五、七里ほど進むと、二つの大きな沼に注ぐ。鄂楞諾爾という。西から東へ連なって呑み合い、一日進むと東へ緩やかに流れて川となり、斉必勒河と称する。さらに二、三日で西南から来る水があり、伊爾斉という。斉必勒河と合する。さらに三、四日で南から来る水があり呼蘭といい、また東南から来る水があり伊拉斉といい、合流して斉必勒に入る。その流れは次第に大きくなり、はじめて黄河と呼ばれる。ただし水はなお清く、人が渡れる。
  • さらに一、二日行くと八、九筋に分かれ、伊遜鄂羅木という。訳せば九渡である。全幅五、七里で馬で渡れる。さらに四、五日行くと水は濁り、土地の人は革の袋を抱えて騎って渡る。集落では木を組んで舟に見立て、毛皮を張って渡り、二人しか乗れない。
  • ここから両側の山峡が東に開けて幅一里か二里、あるいは半里で、深さは測れない。朶甘斯の東北に伊拉瑪博囉という大雪山がある。最も高く、訳せば騰格哩哈達、すなわち崑崙である。山腹から頂までみな雪で、冬夏を通じて消えない。土地の人は、昔は氷となり六月にも見えたという。八、九筋に分かれた水から崑崙まで二十日かかる。
  • 河は崑崙の南を半日行き、さらに四、五日で庫済と克特という二つの地に至る。この二地は隣接している。また哈喇伯勒斉爾という所があり、四方に通じる要衝で盗賊が多く、官兵が鎮守している。北へ二日ほどの所を河水が過ぎる。
  • 崑崙より西は人が少なく多くは山の南に住む。山はいずれもさほど高峻でなく、水も散漫である。獣には髦牛・野馬・狼・狍・羊の類がいる。その東は山がいよいよ高く土地は次第に低くなり、岸は狭まって、狐が跳んで越えられる所もある。
  • 五、六日行くと西南から来る水があり納琳哈喇という。訳せば細い黄河である。さらに二日で南から来る水があり奇爾穆蘇という。二つの水が合流して河に入る。
  • 河水は北へ行き、転じて西へ流れ、崑崙の北を過ぎてひたすら東北へ流れる。およそ半月で貴徳州の必斉勒という地に至り、はじめて州の治所と官府がある。州は吐蕃等処宣慰司に属し、宣慰司の治所は河州にある。さらに四、五日で積石州に至る。これが禹貢の積石である。五日で河州の安郷関に至り、一日で達魯坑に至る。東北へ一日行くと、洮河の水が南から来て河に入る。
  • さらに一日で蘭州に至り、北卜渡を過ぎて鳴沙河に至り、応吉里州を過ぎて真東へ行き、寧夏府の南に至る。東へ行けば東勝州で、大同路に属する。
  • 発源地から漢の地に至るまで、南北の谷川の細流が傍らから注ぎ入り、その数は知れない。山はみな草と石で、積石に至ってはじめて林木が茂る。世に「河に九つの折れがある」というが、かの地には二つの折れがある。奇爾穆蘇と貴徳州の必斉勒がそれである。