元史紀事本末官制の制定(官制之定)

太祖以来の簡素な部族的職制から、世祖が劉秉忠・許衡に命じて中書省・枢密院・御史台を骨格とする内外の官制を定めるまでと、その後の調整の経過。高鳴の議で三省併置を退け、崔彧の請いで御史台の自選と官吏俸給の増給が行われ、安図は近臣による銓選への介入を排した。至元三十年(1293年)、趙天麟が冗官の三弊を論じ、官府二百五十五か所・官六百六十九員が削減された。

年表(9件)

世祖中統元年四月(1260年)

  • はじめて官制を定めた。
  • もともと太祖特穆津は北方に興り、その衆を統べたが、部落は野に散在し万事が草創で、置く官も甚だ簡素であった。断事官を最も重い任として三公の上に位置づけ、丞相はこれを大筆且斉と呼び、兵権を握るのは左右の万戸だけであった。
  • のち西域が次第に平定されると、各城に達嚕噶斉を置いて監督させた。達嚕噶斉とは漢語でいう掌印官である。
  • 中原を取ると、太宗諤格徳依がはじめて十路の宣課司を立て、儒臣を選んで用いた。金から帰順した者には元の官に因り、行省や元帥であればそのまま行省・元帥を授けた。
  • 世祖が即位するとはじめて大いに制度を刷新し、劉秉忠と許衡に古今の宜しきを斟酌させて内外の官制を定めさせた。政務を総べるものを中書省、兵権を握るものを枢密院、黜陟を司るものを御史台とした。この骨格が立ったうえで、内には寺・監・衛・府があり、外には行省・行台・宣慰司・廉訪司があり、民を牧するものを路・府・州・県とした。官には常職があり、位には定員があり、俸禄も定まっていた。その長は蒙古人が務め、漢人と南人が副となった。こうして一代の制がはじめて備わった。

中統元年五月(1260年)

  • 十路の宣撫司を立て、宣撫使および副使を置いた。

至元七年春正月(1270年)

  • 尚書省を立てた。
  • はじめ三省を並置する議が出たとき、侍御史の高鳴が上言した。三省の制は近い時代に始まり、その法は中書から政令が出て門下に移して議し、合わなければ駁正するか詔書を封じて返し、合えば中書に戻し、中書が尚書に移して尚書が六部と郡国に下すというものである。今、天下は古より大きく事はいよいよ繁多で、一つの省で決するのさえ滞ると言われるのに、まして三省ではどうか。しかも官を多く置くのは失政を免れるためだが、賢俊を一堂に集めて連署して合議すれば自ずと失政は免れる。わざわざ官を別にし座を分けなければ失政がないというものでもない。ゆえに政は人を得ることが貴く官を得ることが貴いのではない。一省の方がよい——と。帝は深く納得した。

至元九年春正月(1272年)

  • 尚書省を廃した。

至元十五年秋七月(1278年)

  • 武官の承襲の制を定めるよう詔した。功があって位が上がった者は、元の職を他の功ある者に与え、子や甥に代わらせない。陣没した者にはじめて襲職を許し、病死した者は一等を下げる。把総・百戸で老死した者は襲職させないと定め、令とした。

至元十九年十二月(1282年)

  • 御史台が自らその属官を選べるよう詔した。もともと御史には漢人だけを用いていたが、ここに至って崔彧が蒙古人も参加させて用いるよう請うた。また、台察の人選をただ中書に申請するだけでは偏党の弊がないとは言えないので、本台が自ら選任できるようにすべきだと述べた。
  • その後、江淮省の臣に権限を専らにしたくて台察を忌む者があり、行台を行省に属させようという議が上がった。詔により廷臣が合議したとき、兵部尚書の董文用が「御史台は臥せる虎のようなもので、まだ人を噛まなくとも人はその虎を畏れる。今は虚名がわずかに残るだけで紀綱も振るわぬのに、さらに抑えれば風采は萎えてもはや望みがない。これは行うべきでない」と述べ、これに従った。

至元二十年六月(1283年)

  • 官吏の俸給を増やした。
  • もともと官吏の贓罪の法を定めた詔では、五十貫以上はみな杖のうえ除名して再任させず、百貫以上は死罪とされていた。崔彧は、今の百官の月俸では扶養にも足りず、廉潔と勤勉を求めるのは難しいとして増額を議すべきだと述べた。増やした俸鈔は民から徴するにせよ、官吏が貪らなければ民は必ず恩恵を受ける。それでも貪って罪に問われたなら申し開きの余地はない、とした。そこで内外の官吏の俸を十分の五増給するよう詔した。

三十三年秋七月

  • 中書省に省・院・台・部の官属を銓定するよう詔し、中書令・左右丞相以下それぞれ定員を設けた(原文の紀年。至元に三十三年はなく、次条の三十年より前に置かれることから二十三年〈1286年〉にあたるとみられる)。
  • あわせて安図に「中書省は朕が自ら選ぶ。その他の諸司はすべて中書の判断で増減せよ」と諭した。安図は「近ごろ、陛下が近侍を耳目として頼まれ、臣の行うところが法に外れれば奏上させると聞きます。ところが近臣は隙をうかがって不適格な者を引き、某を某官に、某を某職にと署名した奏目を中書に回して施行させております。銓選の法には定制があり、とくに前例のないものは臣が差し止めて行いませんでしたが、その一党に臣を誹る者が出るのを慮っております」と述べた。帝は「卿の言はまことにもっともだ。今後そうしたことは行わせるな」と述べた。

至元三十年春正月(1293年)

  • 冗官を淘汰した。
  • これより先、趙天麟が策を上って述べた。計を設け網を張るには清簡に越したことはなく、官を建て吏を置くには繁多を厳に戒めるべきである。爵は官の尊卑、階は官の序列、品は官の順序、職は官の掌るところ、位は官の居るところ、禄は官の給、吏は官の補佐である。事は位がなければ運ばぬとはいえ、事が位の多さゆえにかえって増えることもある。だから聖王は少ないことを貴んで多いことを貴ばず、静かなることを望んで動くことを望まない。
  • 唐虞は古に稽えて官をわずか百に建て、夏商はその倍でもよく治めた。周は卿が職を分けてそれぞれ属を率いた。その後、職員はいよいよ多くなり、治はいよいよ古に及ばなくなった。漢の光武が四百県を廃して民の生業が定まり、隋の文帝が五百部を廃して天下の政が行われたのは、いずれも官は多くを要せず賢を得るかどうかにかかり、政は煩雑さではなく事を省くことを貴ぶからである。
  • 今、国家の制は、王から国王・郡王・国公以下を爵とし、特進・崇進から将軍・大夫・校尉・郎までを階とし、正一品から従九品までを品とし、掌り典り担当するところを職とし、各職の居るところを位とし、各位の廉を養う資を禄とし、各司で補佐し文書を扱う史を吏とする。その制はすでに詳らかである。しかし文武の二等が内外に分かれて配され、本来は安寧を図るためでありながら、かえって安寧を得がたくしている。
  • 私の見るところ、京師には急を要さぬ司や院、無用の署や局があり、随朝の台・省・院・部以下の諸有司の官吏にも、兼ねられるのに兼ねず、併せられるのに併せぬものがすでにある。畿外の行省、随省の諸有司、宣慰・廉訪などの司、路・府・州・県、倉・庫・局・監などの諸役所およびその内部の官吏にも冗員がある。武臣にも、万戸で万人に満たぬ者、千戸で千人に満たぬ者の類がすでにある。
  • 私が思うに冗官の大きな弊は三つある。一に選法の弊、二に政事の弊、三に軍民の弊である。
  • 文武の官吏の員数が多いと、任期満了の時期、春秋の選考が近づくと、資格の簿冊が入り乱れ、保薦の文書が錯綜する。有司は文書を処理するだけで手一杯で、誰に才があり誰に徳があるかを考課する暇などない。考課できなければ籍の記載や薦書に書かれたことを基準にするほかなく、そこで雑流の者が入り込み賄賂の穴が開き、員が多く欠が少ないのをどうしようもなくなる。手を回した者は早く昇任し、高く構える者は空しく年月を送る。これが選法の弊である。
  • 文武の官吏の員数が多いと、決すべき事が決せられず、行うべき事が行われない。職を問えば「私はこの職だ」と言い、施策を問えば「僚属は一人ではない。どうして私一人で主導できよう」と言う。竽を吹かぬまま合奏に紛れ込む者と同じで見分けがつかず、王命を受けながら安穏としている。朝廷がそれを聞いて期限違反の罰を立てるに至っては、行き過ぎではないか。これが政事の弊である。
  • 国家が人を用いる道は広く、浮薄な者まで昇進する。そうした者を下に臨ませれば政の教化を敷けるはずがない。そうなれば搾取の苦しみと使役の煩わしさが生じ、害は実に大きい。これが軍民の弊である。
  • 三つの弊を絶たずにただ法を立てて防ごうとしても、法が立てば法を恐れる者の姦計もまた増えるだけである。
  • 願わくは陛下がこの三弊を察し、京師の急を要さぬ司や院、無用の局や署、および天下の諸役所で廃せるものをすべて廃し、行省・随省の諸有司、宣慰・廉訪などの司、路・府・州・県などの一切の役所、および万戸・千戸で人数に満たぬ類のうち併せられるものをすべて併せ、省・台・院・部以下の諸司の官吏および天下の諸役所の官吏で減らせるものをすべて減らしていただきたい。そのうえで名器を慎む法によって人を選んで用い、幽明を考える法によって理に順って考課すれば、選を司る者は人を見分けやすく成績を測りやすくなり選法は清まる。政に臨む者は事に帰するところ職に主るところができて政績が成る。下にある者は煩わしい役を省かれ苛酷な搾取を免れて民の生業が定まる。民は天下の本であり、民の生業が定まって天下が太平にならなかった例はない——と。
  • 帝はこれを嘉して容れ、そこで内外の官府二百五十五か所、官六百六十九員を減らした。