元史紀事本末漕運(河渠/海運)(運漕(河渠/海運))
江南の粟を大都へ運ぶため、元が河漕と海運の二路を整えた経過。至元十九年(1282年)に朱清・張瑄の建議ではじめて海運を試み、会通河・通恵河の開鑿と並行して海運を拡張し、殷明略の新航路によって浙西から京師まで十日で達するに至った。毎年の運送量は百万石台から三百万石台へ伸びたが、順帝至正の金口河は失敗に終わり、方国珍・張士誠の割拠によって海運の舟は京師に来なくなった。
年表(16件)
- 世祖
- 至元十七年二月1280年通州の運河を浚渫する
- 至元十九年十二月1282年朱清・張瑄の議によりはじめて海運を行う
- 至元二十年1283年新河をやめてふたたび海運に取り組み、万戸府二つを立てる
- 至元二十四年1287年行泉府司を立てて海運を専管させ、東平の河運を廃する
- 至元二十五年1288年漕運司を内外に分置し、河西務で海運を受け入れさせる
- 至元二十六年1289年韓仲暉らの言により会通河を開き、閘三十一を築く
- 至元二十七年五月1290年馬之貞の奏により駅站戸三千を割いて河道の修浚に専従させる
- 至元二十八年1291年海運の四府を合わせて都漕運府一つとし、朱清・張瑄に掌らせる
- 至元二十九年1292年郭守敬が通恵河を開き、帝が「通恵」の名を賜う
- 成宗
- 大徳五年1301年畿内の飢饉により翌年の海運を百二十万石に増やす
- 大徳八年1304年海運の米を百四十五万石に増やす
- 大徳十年1306年江浙の不作により湖広・江西から五十万石を出させる
- 武宗
- 至大四年1311年江浙の糧をすべて海運に充て、海道運糧都漕運万戸府を立てる
- 仁宗
- 延祐二年二月1315年沽頭・臨清に石閘を置き二百料以上の船の入河を禁じる
- 順帝
- 至正二年春正月1342年許有壬の反対を排して金口河を開くが通船できず建議者は処刑される
- 至正十九年1359年巴延特穆爾を遣わし張士誠らからようやく粟十一万石を得る
世祖至元十七年二月(1280年)
- 通州の運河を浚渫した。
至元十九年十二月(1282年)
- はじめて海運を行った。
- もともと朝廷の糧運は江南に頼っており、浙西から長江を渡って淮に入り、黄河を遡って中灤に至り、そこから陸運で淇門に運んで御河に入れて京師まで運ぶか、あるいは利津河または膠萊河から海に入るという経路で、労も費も多く成果が上がらなかった。
- 宋末に朱清という海賊がいた。もと富家の下男であったが、人を殺して亡命し海島に入り、仲間の張瑄とともに舟で海上を掠め、海路の曲折を知り尽くしていた。まもなく招かれて防海義民となった。巴顔が宋を平定したとき、清らに宋の庫蔵の諸物を海路で京師へ運ばせ、二人に金符と千戸を授けた。
- そこで二人が海運は可能だと述べたので、総管の羅璧と瑄らに平底船六十艘を造らせ、糧四万六千余石を海路で京師へ運ばせた。しかし外洋の航行は初めてで、山づたいに水路を探り、風の時期も外して、一年を越えてようやく到着した。朝廷はまだその利を知らず、なお旧来の輸送も続け、京畿・江淮の都漕運司二つを立て、それぞれに分司を置いて綱運を監督させた。
至元二十年(1283年)
- ふたたび海運を行った。この年、王積翁の議により阿巴斉らに広く新河を開かせたが、新河は潮を待って行くもので船の損壊が多く、民も苦しんだ。一方、蒙固岱が海運の舟はすべて到着したと述べたので、新河をやめて再び海運に取り組んだ。
- 万戸府二つを立て、朱清を中万戸、張瑄を千戸、蒙固岱を万戸府達嚕噶斉とした。まもなく新河の軍士・水手および船を揚州と平灤の二か所に分けて糧を運ばせ、三省に船二千艘を造らせて済州河で糧を運ばせた。まだ海路に専らというわけではなかった。
至元二十四年(1287年)
- はじめて行泉府司を立てて海運を専管させ、万戸府二つを増置して計四府とした。この年、東平の河運による輸送を廃した。
至元二十五年(1288年)
- 内と外に漕運司を二つ分置し、外の方は河西務に司を置いて海運の受け入れに当たらせた。
至元二十六年(1289年)
- 会通河を開いた。寿張県尹の韓仲暉らの言に従い、河を開いて運路を通したもので、項城県の安山渠の西南から始まり、寿張の西北を経て東昌に至り、さらに西北へ臨清に至り、汶水を引いて御河に達する。長さ二百五十里余、途中に閘三十一を築いて時に応じて水を溜め放った。
- 河が完成すると、渠官の張礼孫らが「魏博の渠を開いて江淮の運を通じるなど古来聞いたことがない」と述べ、詔により「会通河」の名を賜った。
史論(丘濬)
- 会通河の名はここに初めて見える。しかし当時は河道を開いたばかりで岸が狭く水が浅く、重い荷を負えず、毎年の運送は数十万石にすぎず、海運の量には及ばなかった。それゆえ元の一代を通じて海運は廃されなかった。
- 明の初め、会通河の旧道はなお残っており、今の済寧の在城閘には洪武三年に往来の船に停滞を禁じた諭告の碑石が北岸に残って確かめられる。洪武二十四年に黄河が原武で決壊して安山湖に溢れ、会通河は淤まり、往来はすべて陸路で徳州の下流に出るようになった。
- 太宗皇帝が北京を開かれ、永楽の初めには糧を長江から淮へ、淮から黄河へ入れて陽武まで運び、山西・河南の二か所から人夫を出して陸路で衛輝へ運び、御河から水運で北京に至らせた。その後、済寧州同知の潘叔正が州の人夫による継送の困難を理由に会通の旧河を開くよう請い、朝廷は工部尚書の宋礼に人夫十余万を発して浚鑿させ旧道を回復した。また刑部侍郎の金純に汴城の北の金龍口から黄河の故道を開かせ、水を分けて魚台県の塌場口へ達させて漕河を助けた。永楽十年に宋尚書が会通河による通運を請い、十三年にはじめて海運をやめて河運に専らとなった。翌年、平江伯の陳瑄がさらに淮安の安荘閘一帯の沙河を浚え、淮から北の沿河に浅鋪を立て、牽路を築き柳を植え井を穿った。以後、漕法は円滑となり、今日まで百年になる。
- 東南の粟を運んで京師を満たすのは漢・唐・宋もみな同じだった。しかし漢唐は関中に都し宋は汴梁に都したので、漕運の河はみな天地自然の勢いに拠り、多少の人力を借りたとはいえ、会通河のように前代になく元人が初めて創設したものとは違う。元人はこれを造ったが大成させられず、用いたがその大利を得られなかった。明の代になっていよいよ修理し拡大し、元代の運送は毎年わずか数十万であったのが、今日の最盛時には四百万を超え、およそ十倍になった。
- 昔、宋人は汴水について、大禹が疏鑿し隋煬帝が開濬したものが結局は宋人の用に供されたとして天意だと論じた。夏から隋、隋から宋まで幾つもの朝代を経ており、天意がもっぱら宋にあったかどうかは私には分からない。しかし元がこの河を造り、河が完成しながら漕運を尽くし通せなかったのは、天が元人の力を借りて我が朝の用に供したものであろう。その意はまことに明らかではないか。
至元二十七年五月(1290年)
- 省臣の馬之貞が、長雨で岸が崩れ河道が浅くなっているので修浚すべきだと述べ、輸送の任を解かれた駅站の戸三千を割いてこの役に専従させ、あわせて木石などを伐採して用に充てさせるよう奏した。また毎年、都水監の官一人を委ねて巡視させ、工事を監督して閘を石に替え、緩急を見て順序をつけることとし、容れられた。
至元二十八年(1291年)
- 海運の四府を合わせて都漕運府一つとした。朱清・張瑄の請いによるもので、清と瑄の二人だけに掌らせ、その属官に千戸・百戸などを置いて各翼に分け、毎年の運送を監督させた。
至元二十九年(1292年)
- 通恵河を開き、郭守敬に都水監の事を統べさせた。
- もともと守敬は水利に関する十一の事を述べており、その一つが、昌平県白浮村の神山の泉を導いて双塔・楡河を過ぎ、一畝・玉泉などの水を引いて城内に入れ、積水潭に集め、さらに東へ折れて南へ旧河に入れるというもので、十里ごとに閘を置いて時に応じて水を溜め放つとした。
- 帝は称賛し、あらためて都水監を置いて守敬に統べさせた。丞相以下がみな自ら畚と鍬を執って範を示した。閘を置く場所ではしばしば地中から昔の甎や木材が出てきて、人々はその見識に服した。一年余りで工事を終え、以後、都の民は陸路で運ぶ労を免れ、公私ともに便利となった。帝は上都から戻る途中、積水潭を過ぎて舟が水を覆うのを見て大いに喜び、「通恵」の名を賜った。
史論(丘濬)
- 通州から都城まで陸路で運べばわずか五十里であるのに、元人が開いた河は総延長百六十四里に及び、その間に閘や壩を計二十か所設けており、費用も相当なものであった。まして今は荒廃して久しく、慶豊以東の諸閘は残っていても河流は浅く淤み、通運はかなり難しい。
- しかも積水潭は今の海子で、都城の中、禁城の北にある。漕舟が集まっても停泊する場所がなく、そのうえ水が分かれて大内に入り、それから南へ出る。その開閉や貯放は外部の者が専断できるものではない。論者はしばしば元人の旧規を復するよう建議するが、それが果たして便利かどうかは見届けていない。
成宗大徳五年(1301年)
- 畿内が飢饉であったため、翌年の海運の糧を百二十万石に増やした。
成宗大徳八年(1304年)
- 海運の米を百四十五万石に増やした。
成宗大徳十年(1306年)
- 中書省が、例年の海漕は糧百四十五万石であるが、今年は江浙が不作で数どおりにはできないとして、旧例どおり湖広・江西から五十万石を出させ、あわせて海路で京師へ達させるよう奏し、容れられた。
武宗至大四年(1311年)
- 官を江浙へ遣わして海運の件を議させた。
- 当時、江東の寧国・池州・饒州・建康などの糧の輸送は、海船に揚子江を遡らせていたが、江水は流れが速く石磯も多く、岩が動き砂が積もって糧船が壊れることが毎年のようにあった。また湖広・江西の糧は真州まで運んで海船に積み替えたが、船が大きく喫水が浅くて江の水に適さなかった。そこで嘉興・松江の秋糧および江淮・江浙の財賦府の毎年の収入をすべて海運に充てることとし、海漕の利はここに至って広く行き渡った。
- これより先、江浙省の臣が次のように述べていた。かつて朱清・張瑄の海漕は毎年四、五十万から百十万石で、当時は船が多く糧が少なく賃金も均衡していた。近年は賦課が次々に出て漕戸は困窮し逃亡する者もある。今年は三百万石を運ぶのに漕舟が足りず、人を浙東・福建などへ遣わして雇い集めたので百姓が騒然としている——と。
- 本省の左丞・沙布迪音は、弟の哈斉勒および瑪哈木・丹徳爾・澉浦の楊家などはみな舟を持ち漕運の事に詳しいので、海道運糧都漕万戸府の官として自らの力で官糧を運ばせ、万戸・千戸はみな軍官の例に倣って世襲させ、漕戸を労わって雇い賃を増やせば成果が上がろうと述べた。
- 尚書省がこれを奏し、瑪哈木・丹徳爾を遥授右丞・海外諸蕃宣慰使都元帥として海道運糧都漕運万戸府の事を統べさせ、千戸所十を設けて各所に達嚕噶斉・千戸などの官を置くよう請い、いずれも容れられた。
仁宗延祐二年二月(1315年)
- 省臣が、江南行省から発送する諸物が会通河を経て都に達するのに期限を過ぎるものが多いと述べた。その理由を問うと、いずれも、河を開いた当初は百五十料の船しか通行を許さなかったが、近ごろは権勢の者や富商大賈が利を貪って三、四百料あるいは五百料の船を造ってこの河を航行させるため、往来の舟が滞るのだという。今、沽頭と臨清の二か所にそれぞれ小さな石閘を一つずつ置き、二百料以上の船の入河を禁じ、違反者は処罰すべきだとした。
順帝至正二年春正月(1342年)
- 京師の金口河を開いた。
- 当時、中書参議の博囉特穆爾と都水の傅佐が、通州の南の高麗荘から百十里余にわたって新河一道を開き、深さ五丈・幅十五丈とし、西山の金口の水を東へ流して御河に合わせ、海運を引き入れて大都城内へ運び納めることを建議した。当時、托克托が中書右丞相であり、これを奏して実行させた。廷臣の多くは不可と述べたが、托克托は衆議を排して必ず実行しようとした。
- 左丞の許有壬がその利害を条陳して述べた。成宗大徳二年、渾河の水が出て民の害となったので、大都路の都水監が金口の下の閘板を閉じた。同五年、渾河の水勢が甚だしく、郭太史は田・薛の二村と南北二城が押し流されるのを恐れ、金口から上の河身を砂石と土でことごとく塞いだ。文宗の至順の初め、都水監の郭道寿が金口から水を引いて京城を通し通州に至れば利は無窮だと述べたので、工部の官と河道提挙司および長老たちに実見させたところ、みな、水が二城の間を通るには障害が多いと述べた。また盧溝河は橋から合流点まで、これまで漁舟すら上下したことがない。これこそ船を通せない明証である。
- しかも通州は京城から四十里、盧溝はわずか二十里である。船が通せるなら当時なぜ盧溝に船着き場を立てず、何かと便利なそこを避けて四十里も先の通州に置いたのか。また西山の水勢は高く険しい。金の時には都城の北にあって曠野へ流れ込んだので、決壊しても害は軽かった。今は都城の西南にあり、昔とは異なる。この水は本来流れが急で、夏秋の長雨で溢れれば無事とは言い切れない。宗廟社稷のある地で、万一の僥倖を許してよいものか。
- また地形の高低の差が甚だしく、閘を作らねば水が走って浅くなり、閘で調節すれば砂泥が濁って必ず淤塞する。毎年毎月、人を専任して浚うことになり、終わりというものがない。しかも郭太史が通恵河を作ったとき、なぜこの水を使わず、遠く白浮の水を取って都城へ引き入れ閘壩の用に供したのか。白浮の水は澄んでおり、この水は濁って使えないからである。
- この議が起こって外に伝わるや、万人が口を揃えて不可と言っている。もし大功を成す者は衆に諮らぬ、人の言は聴くに足らぬというのなら、それは商鞅・王安石の法であり、当今にあってよいものではない——と。
- この議は托克托に上げられたが、ついに容れられなかった。工事は四か月で終わり、閘を起こして金口の水を放つと、流れは急で砂泥が塞がり船は通れなかった。しかも掘削の際に民家や墓を壊し、人夫の死傷は甚だ多く、費用も莫大で、結局何の功もなかった。まもなく御史が建議者を弾劾し、博囉特穆爾と傅佐はともに処刑された。
- この年、江浙行省および中正院・財賦総管府に、諸人や寺観に下賜された糧をすべて発送させたが、わずか二百六十万石を得たにすぎなかった。その後、汝寧・潁州で乱が起こり、湖広・江右が相次いで陥ち、方国珍と張士誠が浙東・浙西の地を占拠したため、貢賦は納められず海運の舟は京師に来なくなった。
至正十九年(1359年)
- 巴延特穆爾を遣わして江浙に海運を徴した。詔により張士誠に粟を出させ方国珍に舟を出させたが、二人の賊は互いに猜疑した。巴延特穆爾と行省丞相が手を尽くして説得し、ようやく命に従って粟十一万石を得た。三年後にふたたび官を遣わして徴したが、命を拒んで出さなかった。
海運の航路
- もともと海運の道は、平江の劉家港から海に入り、揚州路・通州の海門県の黄連沙頭、万里長灘を経て外洋に出て、山づたいに進んで淮安路の塩城県に至り、西海州・海寧府・東海県、密州・膠州の界を経て、一月余りでようやく成山に着いた。その水程は上海から楊村の船着き場まで計一万三千三百五十里であった。
- のちに朱清・張瑄らがその道は険悪だとして新たな道を開いた。劉家港から外洋に出て撑脚沙に至り、沙嘴を回って三沙・洋子江に至り、大洪を過ぎ、さらに万里長灘を過ぎて外洋に出て青水洋に至り、黒水洋を経て成山を過ぎ、劉島を過ぎて芝罘に至り、莱州の外洋に出て界河口に至る。この道はいくぶん直線的であった。
- 最後に殷明略がさらに新道を開いた。劉家港から海に入って崇明州の三沙に至り、外洋に出て東へ進み黒水の大洋に入り、成山を取って西へ転じて劉家島に至り、さらに登州の沙門島に至り、莱州の大洋から界河に入るというものである。舟行に風の時期が合えば、浙西から京師までわずか十日ほどで、前の二つの道に比べて最も便利だった。
- とはいえ風濤は測りがたく、糧船が漂流し沈没することは毎年あり、船が壊れて米を棄てることもあった。しかし漕河の費用に比べれば得るところははるかに多かった。
毎年の海運の数
- 至元二十年、四万六千五十石を発し、到着は四万二千百七十二石。
- 二十一年、二十九万五百石、到着は二十七万五千六百十石。
- 二十二年、十万石、到着は九万七百七十一石。
- 二十三年、五十七万八千五百二十石、到着は四十三万三千九百五十石。
- 二十四年、三十万石、到着は二十九万七千五百四十六石。
- 二十五年、四十万石、到着は三十九万七千六百五十五石。
- 二十六年、九十三万五千石、到着は九十一万九千九百四十三石。
- 二十七年、百九十五万五千石、到着は百五十一万二千八百五十六石。
- 二十八年、二百五十三万七千二百五十石、到着は二百二十八万一千六百十五石。
- 二十九年、百四十万七千四百石、到着は百三十六万一千五百十三石。
- 三十年、九十万八千石、到着は八十八万七千五百九十一石。
- 三十一年、五十一万四千五百三十三石、到着は五十万三千五百三十四石。
- 元貞元年、三十四万五百石。
- 元貞二年、三十四万五百石、到着は三十三万七千二十六石。
- 大徳元年、六十五万八千三百石、到着は六十四万八千百三十六石。
- 大徳二年、七十四万二千七百五十一石、到着は七十万五千九百五十四石。
- 大徳三年、七十九万四千五百石。
- 大徳四年、七十九万五千五百石、到着は七十八万八千九百十八石。
- 大徳五年、七十九万六千五百二十八石、到着は七十六万九千六百五十石。
- 大徳六年、百三十八万三千八百八十三石、到着は百三十二万九千百四十八石。
- 大徳七年、百六十五万九千四百九十一石、到着は百六十二万八千五百八石。
- 大徳八年、百六十七万二千九百九石、到着は百六十六万三千三百十三石。
- 大徳九年、百八十四万三千三石、到着は百七十九万五千三百四十七石。
- 大徳十年、百八十万八千百九十九石、到着は百七十九万七千七十八石。
- 大徳十一年、百六十六万五千四百二十二石、到着は百六十四万四千六百七十九石。
- 至大元年、百二十四万百四十八石、到着は百二十万二千五百三石。
- 至大二年、二百四十六万四千二百四石、到着は二百三十八万六千三百石。
- 至大三年、二百九十二万六千五百三十二石、到着は二百七十一万六千九百十三石。
- 至大四年、二百八十七万三千二百十二石、到着は二百七十七万三千二百六十六石。
- 皇慶元年、二百八万三千五百五石、到着は二百六万七千六百七十二石。
- 皇慶二年、二百三十一万七千二百二十八石、到着は二百十五万八千六百八十五石。
- 延祐元年、二百四十万三千二百六十四石、到着は二百三十五万六千六百六石。
- 延祐二年、二百四十三万五千六百八十五石、到着は二百四十二万二千五百五石。
- 延祐三年、二百四十五万八千五百十四石、到着は二百四十三万七千七百四十一石。
- 延祐四年、二百三十七万五千三百四十五石、到着は二百三十六万八千百十九石。
- 延祐五年、二百五十五万二千七百十四石、到着は二百五十四万三千六百十一石。
- 延祐六年、三百二万一千五百八十五石、到着は二百九十八万六千十七石。
- 延祐七年、三百二十六万四千六石、到着は三百二十四万七千九百二十八石。
- 至治元年、三百二十六万八千七百六十五石、到着は三百二十三万八千七百六十五石。
- 至治二年、三百二十五万一千百四十石、到着は三百二十四万六千四百八十三石。
- 至治三年、二百八十一万一千七百八十六石、到着は二百七十九万八千六百十三石。
- 泰定元年、二百八万七千二百三十一石、到着は二百七万七千二百七十八石。
- 泰定二年、二百六十七万一千百八十四石、到着は二百六十三万七千五十一石。
- 泰定三年、三百三十七万五千七百八十四石、到着は三百三十五万一千三百六十二石。
- 泰定四年、三百十五万二千八百二十石、到着は三百十三万七千五百三十二石。
- 天暦元年、三百二十五万五千二百二十石、到着は三百二十一万五千四百二十四石。
- 天暦二年、三百五十二万二千百六十三石、到着は三百三十四万三百六石。
史論(史臣)
- 元は燕に都したが、そこは江南から極めて遠い。それでいて諸官庁の繁多、衛士や民の多さのすべてが江南に頼っていた。巴延が海運の策を献じてから、江南の粟は春と夏の二運に分けられ、京師に届く量は毎年多いときで三百万石余に及んだ。民は運搬の労なく、国には蓄えの富があった。まさに一代の良法というべきである。
史論(丘濬)
- 海運の法は秦にすでにあり、唐人も東呉の稲を転運して幽燕に供給した。しかしそれは辺方の用に供したにすぎず、これを用いて国を足らせたのは元に始まる。史は、舟行に風の時期が合えば浙西から京師まで十日ほどだといい、風濤による漂流沈没の憂いはあるが河漕の費用に比べれば得るところが多いといい、ゆえに元の一代を通じて海運は廃されなかったという。
- 我が朝では洪武三十年に糧七十万石を海運して遼東の軍餉に充て、永楽の初めにも七十万石を北京へ海運し、永楽十三年に会通河が通じてはじめて海運を廃した。
- 元史食貨志が海運を論じて「民に運搬の労なく国に蓄えの富あり」として一代の良法とし、また「海運は河漕の数に比べて得るところが多い」とするのを考えるに、元史を作ったのはみな明初の史臣で、いずれも前朝の時に生い育って海運の利を目の当たりにした人々である。その言は根拠のないものではない。
- 私が思うに、古来、漕運の道には陸・河・海の三つがある。河漕は陸運に比べて費用が十のうち三、四省け、海運は陸運に比べて十のうち七、八省ける。河漕は陸行を免れても人が曳くことは変わらず、海運は漂流沈没の患いがあっても曳く労は省ける。その利害を比べればほぼ相当する。
- 今は漕河が通じ毎年の運送も充分で、海運に頼る必要はない。しかし国を善く謀る者は常に事の起こる前に思わぬ事態を慮る。今、国家が無事のうちに元人の海運の故道を尋ね、別に海運の一路を通じて河漕と並行させ、江西・湖広・江東の粟は従来どおり河運とし、浙西・浙東の沿海一帯は海路で運ばせて人に海道を習熟させれば、いつか漕渠が少しでも滞ったとき、こちらが来なくてもあちらが来る。これもまた患いを思って予め防ぐ先手の計である。