元史紀事本末科挙と学校の制度(科舉學校之制)

元の科挙と学校の制が議されては流れ、ようやく成立し、また廃されて復活するまでの経過。太宗期の耶律楚材の試士、至元の史天沢・王鶚・許衡の建議はいずれも実施に至らず、至元二十四年(1287年)に国子監が置かれて学校の制が整った。仁宗の皇慶二年(1313年)に詔が下って徳行・経術を先とする科挙が定まったが、順帝至元元年(1335年)に巴延・徹爾特穆爾が廃し、許有壬の抗論もむなしく、至元六年(1340年)に庫庫の言で復活した。

年表(20件)

世祖至元二十一年十一月(1284年)

  • 科挙の法を立てる議を詔したが、実施には至らなかった。
  • 元では太宗が中原を得たとき耶律楚材の議を用い、朝臣に諸路を巡って試験を行わせた。論・経義・詞賦の三科に分け、三日間の日程を組んで一科を専修させ、兼修できる者は認めた。東平の楊英らいくらかの者を得て、みな当代の名士であったが、朝議に不都合とする声があり、事は中止された。
  • 至元の初め、丞相の史天沢と学士の王鶚がたびたび科挙による人材登用を請い、帝は中書に程式を定めるよう詔した。あわせて、前代に倣って国学を立て、蒙古人および諸職官の子孫百人を選んで教習させ、技芸が成ってから試用するよう請うたが、いずれも実施に至らなかった。
  • ここに至って丞相の和爾果斯と留夢炎らがあらためて、天下に儒を学ぶ者は少なく刀筆の吏から官を得る者が多いと述べた。帝が「どうすればよいか」と問うと、「貢挙による人材登用が最善です。蒙古の士および儒吏・陰陽・医術のいずれにも試験を課せば、みな学問に心を用いましょう」と答え、帝はその奏を認めた。
  • 続いて許衡も学校と科挙の法を議し、詩賦を廃して経学を重んじ、新制を定めるべきだとした。ところが和爾果斯が罷免され、事はそのまま沙汰やみとなった。

至元二十四年閏二月(1287年)

  • はじめて国子監を置き、耶律有尚を祭酒とした。もともと太宗が国子監を総べて教える官を設けたが、至元の初めに許衡を祭酒としたときも入学した侍臣の子弟はわずか十数人にすぎなかった。衡が去ると教育はいよいよ廃れ、学舎も建てられず師生は民家に寄宿していた。国子司業の耶律有尚がたびたびこれを訴え、はじめて国子監を立て、監官を置いて弟子員を増やし、有尚を祭酒とした。
  • 江南の各路に儒学提挙司を置いた。当時、江南の諸県にはそれぞれ教諭二人を置いていたが、さらに廷臣の議により諸道に提挙司を置いて提挙儒学二人を設け、諸路・府・州・県の学の祭祀と銭糧の事を統べさせた。まもなく僧格らの言に従い、江南の学田の収入の余剰を調査して集賢院に貯え、才芸ある士に給することとした。

至元二十六年秋八月(1289年)

  • はじめて回回国子学を置いた。

至元二十七年春正月(1290年)

  • 従臣の子弟を国子学に入れるよう勅した。
  • 興文署を置き、経籍の版木と江南の学田の銭穀を管掌させた。

至元二十八年春正月(1291年)

  • 江南の諸路の学および各県の学の中に小学を設け、老練な士を選んで教えさせた。そのほか先儒が教化を及ぼした地、名賢が経歴した所、および篤志の家が銭穀を出して学を支える所も、あわせて書院とした。
  • 師儒のうち朝廷から任命される者を教授といい、路・府・上州・中州に置いた。礼部および行省・宣慰司から任命される者を学正・山長・学録・教諭といい、路・州・県および書院に置いた。

成宗元貞元年三月(1295年)

  • 蒙古学政を増設し、粛政廉訪司に管轄させた。

成宗元貞元年秋七月(1295年)

  • 内外に、儒と吏の双方に通じた者があれば各路から挙げるよう詔した。廉訪司は道ごとに毎年二人を貢し、省と台が法を定めて試験し、基準に達した者を用いる。挙げ方が公正でなければ推挙した者を罪に問うこととした。

大徳八年(1304年)

  • 蒙古国子生を三百員に増やし、宿衛の大臣の子弟を選んで充てた。

武宗至大元年(1308年)

  • 呉澄を召して国子監丞とした。これより先、許衡が祭酒であったころは学ぶ者が奮い立ったが、久しくして次第に旧来の姿を失っていた。澄が着任すると諸生に順を追って授業し、日が傾いて退いた後も、私室で経を手に問い質しに来る者が絶えなかった。澄はそれぞれの資質に応じて繰り返し教え諭した。

武宗至大四年夏四月(1311年)

  • 国子監の師儒の職には、才徳ある者であれば品級にかかわらず選任するよう勅した。
  • はじめ帝は李孟に国子学を統べさせ、「国学は人材の出るところである。卿はたびたび諸生を考課してその徳業を励ませ」と諭した。また省臣に「かつて世祖は国学に意を注がれ、博果密らはみな蒙古人でありながら教育によって人材となった。朕は今、国子生を三百人と定め、さらに陪堂生二十人を加える。一経に通じた者は順次伴読に補すことを定式とせよ」と諭した。
  • ここに至って李孟らが、今は儒者を登用しているが老成の者が日々世を去っている、各地の儒士で人材となった者を国学・翰林・秘書・太常あるいは儒学提挙などの職に抜擢し、学ぶ者を励ますべきだと述べ、帝はこれに従った。

仁宗皇慶元年二月(1312年)

  • 呉澄を司業とした。澄は宋の程顥の学校に関する奏疏、胡瑗の六学の教法、朱熹の学校貢挙私議を用いてこれをまとめ、教法四条とした。一に経学、二に行実、三に文芸、四に治事である。ただし実施には至らなかった。
  • また澄は学ぶ者に、朱子は道問学の功が多く、陸子静は尊徳性を主としたが、問学が徳性に基づかなければその弊は必ず言語や訓釈の末に偏る、ゆえに学は徳性を本とせねばならぬ、と語った。議する者はこれをもって澄を陸氏の学とみなし、朱子を尊信する許氏の本意ではないとしたが、そもそも朱陸の何たるかを知る者もいなかった。澄はある夜、辞して去り、諸生には暇乞いもせず南へ従った者もいた。まもなく集賢直学士を拝したが、病により赴かなかった。

仁宗皇慶二年冬十月(1313年)

  • 中書省の臣が科挙の件を上言した。世祖の朝にたびたび命が下り、成宗・武宗もまもなく旨を出されたのに、今それが伝わらないのは事を妨げる者があるのではないか。士を取る法として、経学は実に自らを修め人を治める道であり、詞賦は文章を飾る学にすぎない。隋唐以来もっぱら詞賦で人を取ったため士の風は浮華になった。今、臣らの案では律賦・省題詩・小賦をすべて用いず、もっぱら徳行と習経の科を立てて士を取れば、人材が得られよう——と述べ、帝はこれを是とした。

仁宗皇慶二年十一月(1313年)

  • 詔を下して科挙の制を定めた。その趣旨は、祖宗は神武によって天下を定め、世祖皇帝は官を設け職を分かち、儒雅の士を用い、学校を尊んで人材を育てる場とし、科挙を議して士を取る方途とされ、その構想は遠大であった。朕は微身をもって大位を継ぎ、志を継いで事を行うにあたり祖訓を範とする。三代以来、士を取るにはそれぞれ科目があったが、その要は、挙人は徳行を第一とし、技芸を試すには経術を先とし詞章を次とする。浮華で実に過ぎるものは朕の取らぬところである——というものであった。そこで中書に古今を斟酌して条制を定めるよう命じた。
  • その内容は次のとおりである。皇慶三年八月に天下の郡県で賢者・能者を挙げて有司の試験を受けさせ、翌年二月に京師で会試を行い、及第した者には帝が自ら策問を課す。科場は三年に一度開く。挙人は本籍の官司が諸色の戸の中から二十五歳以上で、郷党がその孝弟を称え、朋友がその信義に服する、経に明るく行いの修まった士を推挙して順次送る。私情に走った濫挙や、応挙すべきなのに挙げなかった場合は、監察御史と粛政廉訪司が調査して処断する。
  • 試験の程式は次のとおり。蒙古人・色目人は、第一場が経問五条で、大学・論語・孟子・中庸から出題し、朱氏の章句集註を用いる。義理が明晰で文詞が典雅な者を及第とする。第二場は策一道で、時務から出題し五百字以上とする。
  • 漢人・南人は、第一場が明経で、経疑二問を大学・論語・孟子・中庸から出題し、いずれも朱氏の章句集註を用い、そのうえで自分の考えで結ぶ。三百字以上とする。あわせて経義一道は各自が一経を修め、詩は朱氏、尚書は蔡氏、周易は程氏・朱氏を主とし、この三経は古注疏も併用する。春秋は三伝および胡氏伝を用い、礼記は古注疏を用いる。五百字以上とし、形式は問わない。第二場は古賦・詔・誥・章表のうち一道で、古賦と詔誥は古体、章表は四六と古体を併用する。第三場は策一道で、経史・時務から出題し、華美を尊ばずただ率直な叙述を求め、千字以上とする。
  • 蒙古人・色目人で漢人・南人の科目を望んで受験し及第した者は一等を加えて任官する。蒙古人・色目人で一榜、漢人・南人で一榜とする。第一名は進士及第を賜って従六品、第二名以下および第二甲はみな正七品、三甲はみな正八品とし、両榜とも同じとする。
  • 当時、朝廷が科挙で士を取ろうとするのを見て、これで太平がすぐ実現すると説く者があったが、集賢修撰の虞集だけはその源を治めるべきだとし、学校の議に際して次のように上言した。師の道が立てば善人が多くなる。学校とは士が教えを受けて徳を成し材を達するところである。今、天下の学官は安易に資格によって授けられ、無理に諸生の上に置いて師と名づけているにすぎない。有司も信頼せず生徒も信頼せず、学校に何の益もない。これで師の道が立つことを望めようか。下級の州や小さな邑の士は見聞するところがなく、父兄が子弟を導くにも学問を修めさせる意志がはじめから無く、師友の交わりでもその正邪を弁えない。それでいて賢材が天から降り地から出るはずもない。今の計としては、守令に経に明るく行い修まり徳を成した者を求めさせ、自ら師として尊び、至誠と懇切をもって招くのが第一である。その徳化が及べば感化するところもあろう。次には、操行が正しく奇矯に走って世を驚かせぬ者、先儒の経義と師説を確かに守って妄りに奇論を立てぬ者、衆に敬服されて郷愿の徒でない者を招き、日々その書を諷誦させて学ぶ者に習わせ、耳から入って心に留めさせて本を正せば、後日必ず発するところがあろう。その次には、郷貢で京師に上って及第せず帰った者を取る。その議論や文芸はなお人を奮い立たせるに足り、根拠も知らぬ者とは違う——と。

延祐七年十二月(1320年)

  • ふたたび斉履謙を国子司業とした。もともと履謙は呉澄とともに国学にあったが、罷めて去ってから学制はやや廃れていた。ここに至って履謙を司業とし、旧制を斟酌して升斎積分の法を立てる議を出した。四季ごとに学行を考課して順に昇進させ、上斎に昇ってから二年を経てはじめて私試を受けさせ、辞と理がともに優れた者を一分、辞が平凡で理が優れた者を半分とし、年末に八分に達した者を高等とする。礼部と集賢院が毎年六人を選んで貢するというもので、帝はその議に従った。

二年三月

  • 進士の廷試を行い、呼都克托里・張起巖らに及第・出身を等差をつけて賜った(この記事は延祐二年、1315年にあたる)。

二年夏四月

  • 翰林院で進士に恩栄の宴を賜った。また会試に落第した挙人のうち七十歳以上には従七品の流官として致仕させ、六十歳以上には府州の教授を、その他にはみな山長・学正を授けた。

泰定帝泰定二年閏正月(1325年)

  • 近年、公卿大夫の子弟および一般の民の子で入学する者が多いとして、学官と生員五十余人のうち、すでに廩膳を給されている二十七人のほか、助教一人と生員二十四人にも廩膳を給するよう詔した。あわせて、学の設置は国都にあり、百司・庶府に置かれる訳吏はみな本学から採って充てることとした。

順帝元統二年三月(1334年)

  • 科挙で士を取り、国子学の積分を行うにあたり、学校の官には徳行と学問のある者を選んで充てるよう詔した。

順帝至元元年十一月(1335年)

  • 科挙の廃止を詔した。
  • もともと徹爾特穆爾が江浙平章であったとき、科挙にあたって駅が試験官のために設けた饗応が甚だ盛んで、内心穏やかでなかった。中書省に入るとまず科挙の廃止を議し、また学校の荘田の租は宿衛の士の衣糧に充てられると論じて、当路者を動かしてその機をうかがった。さらに太廟の四祭を一つに減らそうとした。そこで御史の呂思誠らがその罪状を列挙したが返答はなく、思誠は広西僉事に出された。
  • 当時、科挙廃止の詔はすでに書かれていたが璽が押されておらず、参政の許有壬が争った。丞相の巴延は怒って「汝が台臣を煽って徹爾特穆爾を論じさせたのか」と言った。有壬は「太師が徹爾特穆爾を中書に抜擢されたのです。御史三十人が太師を畏れず有壬に従うなど、有壬の権が太師より重いということになりましょうか」と答え、巴延の怒りはやや解けた。
  • そこで有壬は「科挙を廃せば天下の才人が失望します」と述べた。巴延が「挙子は贓罪で身を誤る者が多い」と言うと、有壬は「科挙が行われる前も台中の贓罪は数え切れませんでした。すべて挙子から出たものでしょうか」と答えた。巴延が「挙子の中で任用に足るのは参政くらいだ」と言うと、有壬は「張伯誠・馬伯庸らはみな大事を任せられます。欧陽玄の文章のごときも容易に及ぶものではありません」と答えた。巴延が「科挙を廃しても、美衣美食を求める士は自ずと学に向かう」と言うと、有壬は「士たる者はもとより衣食のために学ぶのではありません」と答えた。巴延が「科挙で人を取るのは実に選法の妨げになる」と言うと、有壬は「今、通事・知印などは天下で三千三百余名おります。今年は四月から九月までに白身から補官されて宣命を受けた者も七十三人に上ります。科挙は一年でわずか三十余人です。科挙が選法の妨げになっているでしょうか」と答えた。
  • 巴延は聞き入れず、翌日詔を宣するにあたり、わざと有壬を班首に立たせて辱めた。有壬は禍を恐れて辞退できなかった。治書侍御史の布哈が「参政は橋を渡ってから橋を壊す人と申せましょう」と嘲り、有壬はこれを大きな恥として病と称して出仕しなくなった。

順帝至元六年十二月(1340年)

  • 科挙を復活させるよう詔した。科挙が中断していたとき、翰林学士承旨の庫庫が折を見て「古来、人材を取って世の用に供するには必ず科挙による。廃してよいはずがない」と述べ、帝はその言を容れて再び行うよう詔した。国子監の積分の生員は三年に一度、科挙の例に倣って会試に入り、及第者から十八名を取ることとした。
  • はじめ世祖が雲南を平定したとき、賽音迪延斉を行省平章政事とした。当時の雲南の風俗には礼儀がなく、男女はしばしば勝手に結ばれ、親が死ねば火葬にして喪祭を行わず、子弟に読書を知る者がなかった。賽音迪延斉ははじめて民に跪拝の作法を教え、婚姻には媒を立てさせ、死者には棺槨を用いて祭奠を行わせ、孔子廟と明倫堂を建て、経史を購い学田を置いた。
  • その後、賽音迪延斉の子・庫克新が相次いで行省右丞となり、あらためて雲南の諸路に広く孔子廟を立て、経学の士を選んで教官とするよう請い、こうして文の気風が興った。元の一代の学校の盛んなことは遠く辺境にまで及び、これも昔になかったことである。

史論(史臣)

  • 元の初め、太宗が中原を得るや耶律楚材の言を用いて科挙で士を選び、世祖が天下を定めると王鶚が計を献じ許衡が法を立てたが、実施には至らなかった。仁宗の延祐年間になってようやく旧制を斟酌して行い、士を取るには徳行を本とし、技芸を試すには経術を先とし、上の求めに応じた優れた人材が続々と現れた。
  • しかし当時は仕官の道が多岐にわたり、銓衡に定まった制度がなかった。学校から出る者には国子監学・蒙古字学・回回国学・医学・陰陽学があり、薦挙から名を挙げる者には遺逸・茂異・求言・進書・童子があった。宿衛や勲臣の家から出た者は順序を越えて待遇され、宣徽や中政の属に用いられた者は内官として重んじられた。蔭叙には通常の格があり、超擢には選用の科があった。直省や侍儀などから官に入る者も清望と呼ばれ、倉庾や賦税を扱う者は例によって閑職と見なされ、盗賊を捕らえた者は功で叙され、粟を納めた者は財で進んだ。工匠までが班資に入り、輿隷までが流品に列した。諸王・公主は投下を寵として与えられて保任させ、遠夷や辺外には長官を授けて世襲させた。こうした類はまさに、吏の道が雑駁で筋道が多いというものである。
  • まして儒には歳貢の名があり、吏には補任の法がある。掾吏・令史、書写・銓写、書吏・典吏と、設けられた名称は数え上げがたく、省・台・院・部、路・府・州・県と、官に入る道筋は指折り数えがたい。名のある卿大夫でさえしばしばこの道から要職に昇り顕爵を受け、そのため刀筆の下吏が権勢をひそかに握り法文を弄ぶに至った。
  • ゆえに銓選の備え、考課の精密さも、随朝と外任、省選と部選、文官と武官、考数と資格と、一毫も越えてはならぬはずでありながら、前例を引き資格を借り、優遇して昇らせ、あるいは降格するといったことが行われ、情に任せて法を破り公を私に用いる。よほど明察な者でなければ見抜けない。これらはみな、文が繁雑になり吏の弊が生じたことの帰結である。