元史紀事本末占城・安南への出兵(占城安南用兵)

元が占城の王子・補的の不服従を討つために出兵し、道を借りる名目で安南にも及んだ経過。索多の占城攻めは隘路に阻まれ、鎮南王の托歓が安南王の陳日烜を破って都城に入るも、疫病と追撃で索多・李恒・樊楫・阿巴斉らを失って撤退した。湖南宣慰司や劉宣の諫言で遠征は打ち切られ、以後は張立道・梁曾を遣わして入朝を求める交渉に転じる。至元十九年(1282年)から至元三十一年(1294年)の出兵中止までの十三年間。

年表(11件)

世祖至元十九年六月(1282年)

  • 軍を発して占城を討つよう詔した。朝廷は占城が帰属したのを受けて索多を派し、現地に行省を置いて撫治させていたが、王子の補的は険を頼んで従わず、その国を通る使臣をみな捕らえていた。
  • 帝は怒って討伐を決し、淮浙・福建・湖広の軍五千、海船百艘、戦船二百五十艘を発し、索多に率いさせた。

至元二十年春正月(1283年)

  • 索多が占城を攻めて破り、国内に入った。王子は山谷へ逃げ込み、のちに臣の宝脱禿花を遣わして帰順を装って軍を欺きつつ、ひそかに派遣していた使臣の皇甫傑ら百余人を殺した。
  • 索多らは久しくその欺きに気づかず、やがて兵を出して攻め、転戦して木城の下まで至ったが、隘路に阻まれて進めず、賊軍が退路を断ったため、決死の戦いでようやく脱出し、引き揚げを謀った。

至元二十一年(1284年)

  • 二月、安塔哈に兵一万五千・船二百艘を発して占城を征させた。船が足りず、江西省に補わせた。
  • 秋七月、鎮南王の托歓に占城征討を詔し、左丞の李恒とともに索多の軍に合流して進ませた。あわせて安南が占城と通謀しているとして、軍にその国を通らせ、兵糧を徴発して軍に供させた。
  • 十二月、托歓の軍が安南に至った。安南王の陳日烜は、自国から占城へは水陸とも便が悪いと述べ、兵を分けて国境を守らせた。

至元二十二年(1285年)

  • 五月、托歓の軍が陳日烜を撃って敗走させ、その都城に入ったのち引き揚げた。日烜は兵を出して追い、索多と李恒が戦死した。
  • はじめ托歓はしばしば日烜に書を送って道を借りようとしたが、ついに容れられず、日烜はかえって兵船を整えて迎撃の備えをした。托歓は隙を見て筏を組んで橋とし、富良江を渡って北で日烜と大いに戦って破り、日烜は行方をくらまして逃げ、その弟の益稷が属下を率いて降った。
  • 托歓が諸将と議したところ、交趾の兵は幾度も敗れて散っても兵を増して勢いを盛り返し、官軍は疫病で死傷が多く、占城には到底達しえない。そこで軍を引き揚げることにしたが、交趾の兵が追撃し、李恒は毒矢に当たって思明で没した。
  • 索多の軍は托歓と二百余里離れており、托歓の帰還を知らぬまま急いでその陣へ向かい、交趾の兵に乾満江で迎撃され、力戦して戦死した。
  • 秋七月、枢密院が、鎮南王の統べる交趾征討軍は長く戦って疲れているとして、蒙古軍千人、漢軍・新附軍四千人を発し、鎮南王の指揮下に置いて安南を征するよう請い、帝はこれに従った。あわせて唐古特を荊湖行省左丞としたところ、唐古特は安南征討の軍を家に帰して休ませるよう請い、詔により鎮南王の裁量に委ねられた。

至元二十三年春正月(1286年)

  • 陳益稷が自ら帰順したことにより、安南国王に封じた。あわせて鎮南王の托歓と左丞相の阿爾哈雅にその国を平定させ、兵で益稷を送り込ませることとした。
  • このとき湖南宣慰司が上言し、「連年の日本征討と占城への出兵で百姓は疲弊し、輸送と賦役は重く、貧民は子を売って役に応じている。一つ動くごとに利害はさまざまだ。しかも安南はすでに使者を送って表を奉り藩を称している。その願いを容れて民力を回復させるのが上策である。やむをえぬなら、まず百姓の賦を緩め、糧を蓄え兵備を整えて、翌年に天候が好転してから大挙しても遅くない」と述べた。折しも吏部尚書の劉宣も同様に述べ、帝はその請いを是として軍を帰し、益稷を鄂州に住まわせた。

至元二十四年春正月(1287年)

  • ふたたび托歓に詔し、右丞の程鵬飛、参知政事の樊楫らを督して安南へ進撃させた。鵬飛と楫らは兵を三道に分けて水陸から進み、十七戦してすべて勝ち、深く国内に入った。安南王の日烜は城を棄てて海上へ逃れた。

至元二十五年二月(1288年)

  • 托歓はふたたび兵を出して陳日烜を海上に追ったが、行方は知れなかった。
  • 右丞相の阿巴斉は「賊は本拠を棄てて遠く逃れ、我が疲れるのを待って乗じるつもりだ。将士はみな北人で、春夏の変わり目には瘴癘が発生する。賊を擒にできぬまま兵糧も尽きようとしており、持久はできない」と述べた。
  • 当時、日烜はまた使者を送って降伏を請い、軍を惑わせた。諸将はその説を信じたが、久しく降らず、衆を擁して海口に拠った。阿巴斉が衆を率いて攻めたものの将士の多くが疫病にかかって進めず、諸蛮もまた叛いて、得ていた要害をすべて失い、引き揚げを謀った。
  • 日烜は散った兵三十万を集め直して東関を守り、托歓の退路を断った。諸軍は戦いながら進み、一日に数十度も交戦した。賊は険に拠って毒矢を放ち、将士は傷を包んで戦った。樊楫と阿巴斉はいずれも戦死した。前軍の斉都爾が奮い立って攻め、交趾の兵がわずかに退いた隙に、托歓は間道を通って帰還した。
  • 日烜はまもなく使者を入朝させ、金の人形を貢いで自らの罪を贖った。帝は托歓が功なく帰ったことを咎め、揚州に鎮させて終身参内を許さなかった。

至元二十八年冬十月(1291年)

  • 礼部尚書の張立道を安南へ遣わし、その王の入朝を求めた。
  • はじめ托歓らが帰還したのち、帝は安南への怒りが収まらず再征を考えていた。折しも日烜が死んで子の日燇が位を継いだ。博果密が「彼は山海の小夷で、天威をもって臨めば震え恐れぬはずがない。今使者を遣わして諭せば、従わぬことはあるまい」と述べたので、かつて安南への使いで功のあった立道をふたたび遣わし、王の入朝を求めさせた。

至元二十九年九月(1292年)

  • ふたたび吏部尚書の梁曾、編修の陳孚を安南へ遣わし、王の入朝を求めた。張立道が帰ったのちも日燇が来なかったため、特に詔して求めさせたのである。

至元三十年(1293年)

  • 八月、安南が使者を送って入貢した。詔により江陵に留め置き、あらためて出兵を議した。
  • はじめ梁曾らが安南に至ったとき、その国には門が三つあり、日燇は脇門から詔を迎え入れようとした。曾が書を送って責め、三度やり取りした末に中央の門から通した。さらに入朝を勧めたが日燇は従わず、臣の陶子奇を曾に同行させて入貢した。曾が日燇との論争の書を奉ると、帝は大いに喜んで自らの衣を解いて賜った。廷臣は日燇がついに入朝しないとみて、陶子奇を江陵に拘留し、劉国傑と諸王の伊勒吉岱らに兵を整え糧を集めさせ、あらためて討伐を議した。
  • 十二月、平章政事の伊克黙色、史弼、高興らが安南征討に功なく帰ったため、それぞれ杖罰を加えて辱め、家財の三分の一を没収した。

至元三十一年五月(1294年)

  • 安南への出兵を止め、その使者を釈放して帰国させた。帝が崩じて皇孫の特穆爾が即位したことによる詔である。