元史紀事本末日本への出兵(日本用兵)

元が日本との通好を求めて使者を重ね、拒まれて二度の遠征に及び、失敗して断念するまで。至元三年(1266年)の赫徳の派遣以来、趙良弼らが大宰府まで至るも返答を得られず、至元十一年(1274年)と至元十八年(1281年)の出兵はいずれも暴風と将帥の不和で潰え、十万の軍のうち帰還したのは三人だけだった。劉宣の諫言により至元二十三年(1286年)に遠征は中止され、以後は成宗期の通商と沿海の防備のみが残る。

年表(12件)

世祖至元十七年五月(1280年)

  • 范文虎を召して日本征討を議した。日本は古の倭奴国で、東海の東にある。ここに至るまでの経緯は以下のとおりである。
  • 至元元年、高麗人の趙彝らの言により日本と通交できると考え、使者にふさわしい者を選ばせた。
  • 至元三年八月、兵部侍郎の赫徳に虎符を給して国信使とし、礼部侍郎の殷弘を副使として国書を持たせ日本へ遣わした。国書はおよそ次のような内容だった。古来、小国の君でも国境を接すれば信義を通じ睦みを修めるものだ。まして我が祖宗は天命を受けて中華を領有し、遠方の異域で威を畏れ徳を慕う者は数えきれない。朕は即位の初め、罪なくして久しく戦禍に苦しんだ高麗の民のために兵を収めてその領域を返し、高麗の君臣は感謝して来朝し、父子のように親しんでいる。王と臣下もすでに知っていよう。高麗は朕の東の藩屏であり、日本は高麗のすぐ隣で、開国以来しばしば中国と通じてきたのに、朕の代になって一台の使者も通好に来ない。王の国が事情をよく知らないのかと案じ、特に使者を遣わして朕の志を告げる。今後は書を通じて好みを結び、親睦を望む——というものである。
  • 赫徳らは高麗を経由し、高麗国王の王植は帝命により臣の宋君斐・金賛らに詔使を案内させたが、日本に至らずに帰った。
  • 至元四年六月、帝は王植が言い訳をして使者を無駄に帰らせたと責め、ふたたび赫徳らを高麗へ遣わして日本の件を委ね、必ず要領を得るよう期限を切った。植は海路が険しく天使を辱めることになるとして、九月に臣の潘阜らに書を持たせて日本へ遣わしたが、六か月留まっても要領を得ずに帰った。
  • 至元五年九月、赫徳にふたたび書を持たせて遣わした。対馬島に至ったが日本は拒んで受け入れず、島民の塔二郎・弥二郎の二人を捕らえて帰った。
  • 至元六年六月、高麗に命じて捕らえた者を送り返させ、中書省から日本へ牒を送らせたが、返答はなかった。
  • 十二月、秘書監の趙良弼を遣わした。良弼は出発に際し、日本の王と会見する際の儀礼を定めるよう請うたが、朝議では両国の上下の分が定まっておらず礼数を論じられないとされ、帝はこれに従った。
  • 至元七年十二月、高麗国王の植に、良弼を必ず日本へ届けるよう詔した。
  • 至元八年六月、日本通事の曹介升らが、高麗は遠回りの道を案内しており、ほかに近道があって順風なら半日で着く、使臣が行くなら同行はできないが大軍が進むなら道案内をしたいと上言した。帝は「それなら考えよう」と答えた。九月、高麗王の植が通事の徐称に案内させて良弼を日本へ届け、日本は初めて弥四郎という者を入朝させた。帝は宴を設けてねぎらい帰した。
  • 至元九年二月、良弼が書状官の張鐸を遣わして報告した。前年九月に日本の弥四郎らとともに大宰府の西守護所に至ったところ、守護の者は「かねて高麗に欺かれ、上国が攻めて来るとしばしば言われてきた。皇帝が生を好み殺を憎み、まず使者を遣わして璽書を示されるとは思わなかった。ただし王京はここから遠いので、まず人を遣わして奉使とともに帰らせ報告させたい」と述べた、という。良弼は鐸をその使者二十六人とともに京師へ送って謁見を求めさせた。帝は、日本の国主が遣わしたのに守護所と称するのは偽りだろうと疑い、姚枢・許衡らに諮問した。みな「聖慮のとおりです。我が兵を恐れてこの者たちを送り、我が強弱を探らせているにすぎません。寛仁を示すべきで、謁見を許すべきではありません」と答え、これに従った。同月、高麗王の植がまた書で日本に大朝と必ず通好するよう諭したが、返答はなかった。
  • 至元十年六月、良弼がふたたび使いしたが、大宰府まで行って帰った。
  • 至元十一年三月、経略使の錫都察球爾らに、千料の舟・巴図魯の軽快な舟・水汲みの舟の三種各三百艘に一万五千の士卒を載せ、七月を期して日本を征討するよう命じた。冬十月、日本に入って破ったが、官軍は統制を欠き、また矢が尽きたため、四方を掠奪しただけで帰った。
  • 至元十二年二月、礼部侍郎の杜世忠らを遣わして書を届けさせたが、これも返答がなかった。
  • 至元十四年、日本が商人を遣わして金で銅銭を買いたいと申し出、許可された。
  • 至元十七年二月、日本が国信使の杜世忠らを殺した。征東元帥の錫都察球爾が自ら軍を率いて日本を討ちたいと請うたが、朝議はしばらく見合わせた。そしてこの五月、帝は范文虎を召して日本征討の方略を議したのである。
  • まもなく詔して、従軍を願い出ていた者および張世傑の敗残兵を集め、日本征討に向かわせた。

至元十七年九月(1280年)

  • 兵十万を発し、范文虎に率いさせた。右丞の察球爾が率いる日本征討の新附軍に鈔と甲を賜った。

至元十七年十二月(1280年)

  • 高麗国王の睶が兵一万・戦船九百艘を率いて日本征討に加わった。詔により察球爾らに戦具、高麗に鎧甲・戦襖を給し、諸将には高麗を通る際に民を煩わさぬよう諭した。

至元十八年(1281年)

  • 春正月、日本行省右丞相の阿勒哈、右丞の范文虎らを召して方略を授けた。
  • 二月、諸将が出発の挨拶をすると、帝は「もとは彼の国の使者が来たから朝廷も使者を送ったのだ。彼が我が使者を留めて返さぬゆえ、卿らにこの行を命じた。漢人は『人の国を取るのは百姓を得るためだ。人を皆殺しにして土地だけ得ても何になる』と言うと聞く。もう一つ案じるのは卿らの不和だ。もし彼の国の使者が来て卿らと談判することがあれば、心を一つにして一人の口から出たように答えよ」と勅した。
  • 六月、阿勒哈が没し、詔により左丞の安塔哈が代わった。
  • 八月、范文虎らが軍を失って逃げ帰った。文虎の上言では、日本に着いて大宰府を攻めようとしたところ暴風で舟が壊れ、それでも戦おうとしたが、万戸の厲徳彪、招討の王国佐らが節度に従わず勝手に逃げ去った、残った兵を合浦へ帰して郷里に戻した、という。
  • まもなく敗残兵の于閶が帰って語ったところでは、官軍は六月に海に入り、七月に平壺島に至り五龍山へ移った。八月一日に風で舟が壊れ、五日に文虎ら諸将はそれぞれ堅固な船を選んで乗り込み、十万余の士卒を山下に棄てた。残された者は張百戸を主帥に推し、木を伐って舟を作り帰ろうとしたが、七日に日本人が攻めて来てことごとく戦死し、残る二、三万は捕虜となった。九月、八角島に至って蒙古・高麗・漢人はすべて殺され、親附軍を唐人と呼んで殺さず奴隷とした。于閶らはその類である。行省の官が議論して互いに譲らなかったため、みな軍を棄てて帰ったのである。のちに莫青・呉万五という者も逃げ帰った。この役で十万の衆のうち帰還できたのは三人だけだった。
  • 十一月、高麗の金州などに鎮辺万戸府を置いて日本を牽制するよう勅した。高麗国王が海浜の城を修築して日本に備えたいと請うたが、許されなかった。
  • 十二月、日本行中書省を廃した。

至元二十年(1283年)

  • 春正月、五衛の軍二万人を発して日本を征し、察罕諾爾で糧を買い上げて軍と工匠に給するよう詔した。
  • 三月、安塔哈を日本行省丞相とし、徹爾特穆爾・劉二巴図魯とともに大いに兵を募り舟を造って日本を伐たせた。中丞の崔彧は「江南で盗賊が相次いで起こるのは、水手の徴募と海船の建造で民が生業を立てられないからだ。日本の役はしばらく止めるべきで、江南四省が負担する軍需も民力に応じて課し、その土地にないものを無理強いすべきでない。物価はすべて実額で民に支払い、水手の募集は本人の意思によるべきだ。民の気力が少し回復し我が備えも整うのを待って、二、三年後に東征しても遅くはない」と述べたが、容れられなかった。

至元二十一年春正月(1284年)

  • 王積翁に詔を持たせて日本へ遣わし、慶元から海路を取らせた。帝は日本の風俗が仏を尊ぶことから、補陀の僧・如智を同行させた。舟人のうち行くことを望まぬ者が共謀して積翁を殺した。

至元二十二年十一月(1285年)

  • 江淮の米百万石を海路で運んで高麗の合浦に貯え、あわせて東京と高麗にそれぞれ米十万石を貯えて日本征討に備えるよう勅し、諸軍は翌年三月から順次出発して合浦に集まることとした。
  • 同月、囚人を赦して顔に入墨し、また宋の時代に私塩を売って海路に習熟した軍を募り、水手として日本征討に充てた。

至元二十三年春正月(1286年)

  • 日本征討の中止を詔した。安南討伐を議していたためである。
  • これより先、征東行省を置き、各地に海舶を造らせ漕船を集め水手を募り兵糧を貯えさせていたが、担当の役所が取り立てて大いに不正な利を得ていた。吏部尚書の劉宣が上言し、「近ごろ日本への出兵を再開する議があるが、この役が止まぬことは国家の安危に関わる。近くは索多の議で占城を伐ち、哈雅の言で交趾を征したが、この数年で吏民は大いに疲弊し盗賊が蜂起した。しかも交趾は小国で、親王が兵を率いて深く入っても功なく、かえって大将を失った。まして日本は万里の海の彼方で、二国の比ではない。万一不利になっても援兵が飛んで渡れようか」と述べた。帝はその言を容れ、ついに詔して日本征討を止めた。

成宗大徳元年(1297年)

  • 江浙省の臣・伊遜岱爾が日本への出兵を請うたが、帝は「今はその時ではない。ゆっくり考える」と述べた。

成宗大徳三年(1299年)

  • 僧の寧一山に妙慈弘済太師を加え、商船に便乗させて日本へ使いさせたが、日本はついに来なかった。

成宗大徳八年夏四月(1304年)

  • 千戸所を置いて定海を守らせ、毎年来る倭船に備えた。

成宗大徳十年夏四月(1306年)

  • 倭の商人・有慶らが慶元に来て交易し、金の鎧甲を献じた。江浙行省に備えを命じた。