元史紀事本末高麗の臣従(高麗之臣)

高麗が元に服属していく経過を、太祖期の契丹人討伐の援兵から説き起こしてまとめる。太宗の薩里台の遠征、王㬚の叛服、世子の倎(植)の入朝と冊立を経て、林衍の乱では西京五十余城が内属して東寧府となった。以後、日本遠征の兵站と征東行省の設置を通じて支配が深まり、王位の継承にも朝廷が介入するようになる。至元十七年(1280年)の駅站設置から成宗大徳五年(1301年)の行省廃止までを扱う。

年表(8件)

世祖至元十七年(1280年)

  • 高麗に駅站を置いた。ここに至るまでの経緯は以下のとおりである。
  • 太祖十一年、契丹人の禄格が九万余の衆を率いて高麗へ逃げ込み、江東城を奪って拠った。太祖は哈斉済・扎蘭らに兵を率いて高麗を助けさせ、禄格を滅ぼしたうえで毎年の貢賦を諭した。高麗はまもなく方物を献じて謝した。
  • 太祖十六年、女真討伐の件を伝えると高麗は初めて表を奉って賀した。以後たびたび使者を送ったが、使者が盗賊に殺されて往来は絶えた。
  • 太宗三年、薩里台に兵を率いて攻めさせ、国人の洪福源が迎え降った。薩里台は福源を王京へ送って国王の王㬚を招き、㬚は弟の侹を遣わして和を請い、許された。京・府・県に達嚕噶斉七十二人を置いて監督させ、軍を返した。
  • 太宗四年、㬚は朝廷が置いた官をすべて殺して叛いた。ふたたび薩里台が兵を率いて王京の南の処仁城を攻めたが、流れ矢に当たって没し、軍は還った。㬚も表を奉って謝罪したが、以後は叛服が定まらなかった。
  • 憲宗八年までに四度も将を派して征伐し、十四の城を抜いた。憲宗の末年、㬚は世子の倎を入朝させた。
  • 中統元年、㬚が没したので倎を帰国させて高麗国王に封じ、兵に護送させ、あわせて国内に赦を行った。中統二年、倎は名を植と改め、世子の愖を遣わして表を奉った。中統五年、植は自ら入朝した。
  • 至元三年、帝は日本と通好しようとし、日本の隣国である高麗に道案内を命じた。至元五年、植が弟の淐を入朝させると、帝は植の欺瞞を責め、淐に直接その事を数え上げて厳しく責めた。さらに特に使者を遣わして植を諭し、軍需を供出し戦艦を造って宋および日本攻撃を助けるよう命じ、植はまた臣を遣わして来朝した。
  • 至元六年、植は権臣の金俊らを誅したと上表し、世子の愖を入朝させた。愖は、国内の臣下が勝手に植を廃して弟の安慶公・淐を立てたと奏した。詔により鄂爾多斯布哈・李諤らを高麗へ遣わして事情を調べさせ、やがて愖に特進上柱国を授け、三千の兵を率いて国難に赴かせた。
  • 帝は、植の廃立が臣下の林衍の仕業であるとして、植・淐・衍らをそろって参内させ事情を述べよと詔し、まず兵を境に迫らせて、来なければただちに討伐するとした。まもなく高麗の統領・崔坦らが、林衍の乱を理由に西京五十余城の人民を挙げて帰属した。
  • 詔により枢密院で高麗征討の議が行われた。馬亨は「高麗はもと箕子の封地で、漢晋では郡県だった。今は来朝しているが本心は測りがたい。兵を厳しくして道を借り、日本を取ると称して勢いに乗じてその国を襲い、郡県とすべきだ」と述べた。馬希驥も「今の高麗は古の新羅・百済・高句麗の三国が一つになったもの。おおむね藩鎮は権が分かれれば制しやすく、諸侯が強大なら制しがたい。彼の州城の軍民の多寡を調べ、二つに分けて別々に治めさせ、権勢を均衡させて互いに牽制させれば、あとはゆるゆると処置できる」と述べたが、議は決しなかった。
  • 折しも使者が高麗に至り、植は詔を受けて復位し、ほどなく自ら京師に朝した。
  • 至元七年、高麗の西京を内属させて東寧府と改め、慈悲嶺を境界とし、蒙固図を安撫使として虎符を佩び兵を率いて西境を守らせ、あわせて高麗の官僚・軍民に林衍討伐の趣旨を諭した。当時植はまた入朝しており、朝廷は軍を付けて帰国させ、将帥に兵士が侵掠せぬよう厳しく戒めさせた。
  • 折しも林衍が死に、その一党は承化侯を王に立てて珍島へ逃げ込んだ。大軍が王京の西関城に至り、人を遣わして衍の妻子を捕らえ、植は旧京に入って居した。この年、植にふたたび使者を送って日本と通好させるよう詔した。
  • 至元八年、諸将が珍島の賊を大破して平定した。
  • 至元十年、植はしばしば国が小さく地が狭いうえ近年不作だと訴え、生券軍を東京に駐屯させたいと願い出た。詔により北京の界に営を置かせ、東京路から米二万石を運んで賑給させた。
  • 至元十一年、植が没し、世子の愖が爵を継いで名を睶と改め、皇女の和塔拉斉爾黙色を娶った。
  • 至元十四年、征東元帥府が、高麗の侍中・金方慶がひそかに死士を養い、鎧や武器を隠し、戦艦を造り兵糧を蓄えて謀反を企てていると上言した。方慶らを捕らえて取り調べ事実と判明し、海島へ流した。ただし高麗の帰順は日が浅く民心が定まらないので、日本遠征から戻った兵二千七百人を充て、長吏を置いて忠清・全羅などに屯させて民を鎮撫し、士卒には牛や農具を備えさせて屯田の計とするよう請い、容れられた。

至元十九年(1282年)

  • 睶が、日本が沿海の郡邑を侵して家屋を焼き子女を掠奪していると上言し、庫哩特穆爾麾下の蒙古軍五百人を金州の守備に出すよう請い、容れられた。

至元二十年(1283年)

  • 征東行中書省を置き、高麗国王の睶と安塔哈に共同で当たらせた。

至元二十八年(1291年)

  • 高麗が飢饉に見舞われ、詔により米十万斛を給して賑わした。

成宗大徳元年(1297年)

  • 高麗国王の昛を逸寿王に封じ、世子の謜を高麗王とした。本人の願い出によるものである。

成宗大徳二年(1298年)

  • 中書省の臣が、謜には罪があり廃すべきだと奏し、父の昛をふたたび王とした。

成宗大徳三年(1299年)

  • 昛が使者を送って入貢した。丞相らが、昛は国内で身分を越えた振る舞いをして法を守らず、謜は年少で無実の者を妄りに殺していると述べ、詔で戒めるよう請い、容れられた。
  • 折しも哈克繖が高麗から帰り、昛は衆を服させられないので朝廷が官を遣わして共に治めるべきだと述べた。そこで征東行省を復置し、庫哩済蘇を高麗行省平章事に任じた。

成宗大徳五年(1301年)

  • ふたたび行省の官を廃した。この年、昛が没して子の謜が再び立った。謜が死んで子の燾が嗣ぎ、燾が死んで弟の暠が嗣いだ。