元史演義第五十四回 黄河を治め石人眼を開き、紅巾を聚め群盗鑣を揚ぐ (治黃河石人開眼  聚紅巾群盜揚鑣)

太平・韓嘉納の処罰と脱脱の権勢

  • 太平が官を退き韓嘉納が流罪先で死に、沃哷海壽が官職を剥奪されたのは、順帝の庶母にあたる脱忽思皇后が、以前に海壽が哈麻を弾劾した際の発言(哈麻が越権無礼だという内容)を恨みに思い、涙ながらに順帝へ讒訴したためだった。
  • 右丞相の脱脱は引き続き朝政を握り、弟の也先帖木児も御史大夫に任じられ、兄弟で要職を占めた。

至正交鈔の発行をめぐる論争

  • 従来の中統鈔・至元鈔に偽造が増えたため、吏部尚書の偰哲篤は新たに至正交鈔を発行し、鈔を母、銭を子とする案を提言した。
  • 国子祭酒の呂思誠はこれに強く反対し、「銭こそ本、鈔は補助であるべきで、母子を逆転させてはならない。民は元々鈔より銭を好むのに、種類を増やせば鈔が銭を圧迫し、上下ともに損をする」と論じた。偰哲篤との間で激しい応酬となり、脱脱の弟・也先帖木児は呂思誠の言い分に理はあるが朝堂での物言いが激しすぎると評した。
  • 結局、台官の弾劾により呂思誠は湖広行省左丞に左遷され、まもなく至正新鈔が全国に発行された。しかし鈔が多く銭が少なくなり物価は十倍以上に高騰し、幣制は大いに乱れ、国庫はますます窮乏した。

賈魯の黄河治水

  • 黄河がたびたび決壊し済南・河間にまで被害が及んだため、脱脱は群臣を集めて対策を協議した。都水監の賈魯は、黄河の故道を回復させ北を塞ぎ南を疏通させる案を主張した。
  • 黄河の変遷の来歴(崑崙山に発し、河套を経て山西・陝西の境を流れ、幾度も流路を変えてきた経緯、殷周以来の大規模な変遷、世祖以後もたびたび決壊してきたこと)が語られる。
  • 脱脱は賈魯に見積もらせ、兵民二十万人を要すると知って驚き、工部尚書の成遵と大司農の禿魯に現地を視察させた。成遵は黄河の故道を復すのは不可能であり賈魯の計画は実行すべきでないと復命し、脱脱と激論になった。成遵は国費の窮乏と山東一帯の飢饉を理由に大規模動員に反対したが、脱脱は聞き入れず、成遵を退けた。
  • 翌日、脱脱は順帝に賈魯の登用を上奏し、成遵は河間塩運使に左遷、賈魯は工部尚書・総治河防使に任じられ、兵民十七万を与えられて治水にあたることとなった。

治河の完成と黄河決壊の予兆

  • 賈魯は至正十一年四月に着工し、七月に浚渫を終え、八月に故河を決壊させて水を通し、九月には舟運が再開、十一月には堤防も完成して黄河は旧河道に復し淮水に合流して東流するようになった。順帝は大いに喜び、賈魯を集賢大学士に任じ、脱脱にも恩賞を与えた。
  • ところが工事の最中、黄陵岡の地中から片目だけの石人が掘り出される出来事があった。これは以前から河南・河北で流布していた「石人一つ目、黄河を動かせば天下反す」という童謡と符合するもので、賈魯は表向き平然と石人を打ち砕かせたが、のちに汝・潁の地で反乱が相次いで起こり、この童謡が的中する形となった。

汝・潁の妖寇と各地の蜂起

反乱の経緯を表にまとめて示す。

  • 潁州の劉福通は、白蓮教徒の韓山童(実は宋徽宗の子孫と詐称)の子・林児を主に担ぎ潁州で挙兵。官に捕らえられた山童に代わり、福通が林児母子を奉じて紅巾を掲げ河南で勢力を広げた。
  • 蕭県の李二(芝麻李)は徐州で挙兵し、趙均用・彭早住らと結んで徐州を陥落させ拠点とした。
  • 羅田の徐寿輝は僧・彭瑩玉らに擁立され蘄水で挙兵、紅巾(紅軍)を称し蘄水・黄州路を陥した。
  • これに加えて先に台州で挙兵していた方国珍(塩の密売人で海賊の嫌疑をかけられ挙兵、江浙参政を捕らえて赦免・任官を迫るも定海尉の官を嫌って温州を攻めた)、定遠で挙兵した郭子興(濠州を陥落)、泰州で挙兵した張士誠(塩運びの民を率い富家や弓手を殺して蜂起、高郵を陥し知府を殺して誠王を自称)の動きも記される。
  • 各地からの急報が相次ぎ、順帝は驚いて諸方に兵を分けて出征させた。

評語

秦は漁陽の徴発、唐は桂林の兵、元は黄河開削の役で滅んだとされ、賈魯・脱脱の責とする論があるが、著者はこれに与しない。元の乱は上下の怠惰放縦によるものであり、治河そのものは民を救う善政である。賈魯の献策も見識のないものではなく、問題は山東の飢饉に際し工事を賑恤に代える策を取らず、いたずらに十七万もの兵役を課して民を疲弊させた点にある。石人の一件は根拠のない話に過ぎないが、賈魯の開削と符合したのは、あるいは草莽の徒が意図的に仕込み世を煽動したものかもしれない。本回は治河の経緯を詳しく描き、群盗の蜂起は表にまとめて簡潔に示した。詳略の使い分けに著者の意図がある。