元史演義第四十五回 全滇を平らげ諸将班師し、大内を避け皇児寄養さる (平全滇諸將班師 避大內皇兒寄養)
太子の亡霊、文宗を責める
- 文宗は太子に憑いた明宗夫妻の亡霊に脅かされ、牀の上で気を失いかける。皇后卜答失里が平伏して詫び、仏事を三年行うと誓うが、亡霊は「命を索めに来た、仏事など無意味」と冷笑する。
- 亡霊はさらに「太子を惜しんで数日は猶予する」と告げて静まる。文宗も涙を流し、皇后に病児を大切にするよう頼んで朝政に出る。
- 文宗は内心、いずれ皇姪(鄜王)に位を譲れば太子の命が助かるかもしれないと考え始める。
雲南の乱、平定へ
- 四川平章の囊嘉岱はかつて鎮西王を僭称して騒乱を起こしたが、明宗即位後に恭順していた。文宗は彼を朝廷に召し出すと偽って蜀を出させ、途中で捕らえて処刑した。
- この報が雲南に伝わると、諸王禿堅は不服を唱え、万戸伯忽・阿禾らと結んで「文宗が兄を弑して自立した」ことを名分に反乱を起こす。中慶路を攻め落とし、廉訪使らを殺害、自ら雲南王を称した。
- 文宗は乞住・帖木児不花らを南討に派遣し、豫王阿剌忒納失里に諸軍を監督させた。土官の祿餘は当初朝廷に従っていたが、禿堅の買収に応じて寝返り、官軍の一隊を全滅させた。帖木児不花も羅羅思蛮の襲撃で戦死する。
- 朝廷はさらに雲都思帖木児らに江浙・河南・江西の重兵を集めさせ、鎮西武靖王搠思班らも加わり、十余万の大軍で四方から進撃。金沙江を渡って阿禾軍を破り、馬金山で伯忽軍も撃破、荊王也速也不干が伏兵で伯忽を討ち取った。
- 禿堅は敗走の末に死に、祿餘は逃亡。豫王らは凱旋を命じられ、荊王を要地に残留させて特默齊を雲南行省平章として軍務を統括させた。その後も羅羅思の撤加伯の残党や祿餘の残党が討伐され、雲南はほぼ平定された。
太子の死
- 太子阿剌忒納答剌の病は癒えず、譫言はやまない。文宗夫妻は帝師に祈祷を頼み、宮中で盛大な仏事を営むが効なく、皇后は嘆きと恨みの言葉を漏らすようになる。
- ある夜、太子は再び亡霊の言葉で皇后を厳しく責め、「お前の願いで数日命を延ばしたが、恨み言を言うとは何事か。長子の命をまず取り、次子も取る」と告げる。
- 文宗が駆けつけると、太子は「なぜ私を欺いて即位させ、なお害したのか。鄜王を立てるつもりで嗣位を認めたのに」と激しく責め、文宗は五体投地して鄜王を太子に立て直すことを誓う。太子は「もう遅い、天罰は免れない」と笑い、まもなく息を引き取った。
- 文宗夫妻は悲嘆に暮れ、桐棺を用意し、盛大な葬儀と追善供養を行った。太子の位牌は慶壽寺に祖先同様に祀られた。
次子の避難
- 葬儀の直後、次子古納答剌も同様の疹疾にかかり、宮中は動揺する。文宗は太平王燕帖木兒を召して相談し、燕帖木兒は「宮中の陰気を避けるべき」と進言、自邸近くの故諸王阿魯渾撤里の邸宅を買い上げて次子の仮住まいとすることになった。
- 燕帖木兒は謙遜しつつもこれを承け、翌日には次子を輿に乗せて宮中から連れ出した。
- (詩:たび重なる懺悔にも災いは避けがたく、幸い忠臣の計略で皇子を宮外へ移せたことを詠む)
評語
- 雲南の乱は文宗を名分をもって討とうとしたもので、成らなかったとはいえ文宗の魂を脅かすに足りた。祿餘のみは反覆常なく蛮族の首領として特に貶されている。
- 太子の死後、次子を燕帖木兒の邸に寄養させた史実について、後世は「漢の故事に倣った」と誤解しがちだが、文宗の愛情の深さや太子の葬儀の丁重さからすれば、単なる寄養ではなく、宮中の祟りを避けるやむを得ぬ処置だったと解すべきである。