元史演義第四十四回 妒みを懐き謀りて故后を毒殺し、儲君を立て驚きて冤魂に遇う (懷妒謀毒死故后  立儲君驚遇冤魂)

明宗の遺児たちと八不沙皇后の境遇

  • 文宗は至順と改元。明宗の后(八不沙皇后)を漠北から呼び戻し宮中に住まわせ、明宗の嫡子・懿璘質班(五歳)を鄜王に封じる。
  • 明宗のもう一人の子・妥歡帖睦爾は、母邁來迪が前宋の趙顯(瀛国公)との間に生んだ子とされ、後に明宗に嫁いだ経緯があるため、その出自を疑う声もあった。文宗は詮索せず甥として遇する。
  • 八不沙皇后は宮中で不遇をかこち、文宗后・卜答失里とも折り合いが悪く、両者の間には侍女を通じた確執が広がっていた。

太監拜住の讒言

  • 太監の拜住が八不沙皇后に無礼な態度をとり、皇后に叱責される。恨みを抱いた拜住は卜答失里に泣きついて八不沙の言葉を誇張して告げ口し、皇后の怒りを煽る。
  • 拜住は卜答失里に対し、鄜王の存在が将来の皇太子(卜答失里の子)の地位を脅かすと吹き込み、八不沙が謀反を企てていると文宗に讒言するよう唆す。

八不沙皇后の毒殺

  • 卜答失里は文宗に迫り、文宗も心を動かされるが自ら手を下すことは拒み、暗に卜答失里に処理を委ねる態度を示す。
  • 卜答失里は拜住に命じて偽の詔を作らせ、鴆酒を持たせて八不沙皇后のもとへ行かせる。八不沙は先帝殺害への恨みを叫びつつ毒酒を飲んで絶命した。
  • 文宗は八不沙の死を病死として片付け、内心では事情を察しながらも安堵する。

妥歡帖睦爾の追放と拜住の怪死

  • 卜答失里は自らの子・阿剌忒納答剌を皇太子に立てようとし、鄜王・懿璘質班と妥歡帖睦爾を排除しようと画策。
  • 妥歡帖睦爾の乳母の夫を使い、彼が明宗の実子ではないとの疑惑を文宗に訴えさせ、妥歡帖睦爾母子は高麗の大青島へ追放される。
  • 拜住は懿璘質班の毒殺も進言するが、その直後、何者かに打たれたように昏倒し、卜答失里や拜住自身を口を借りて明宗夫妻の霊が呪詛する言葉を発したとされ、舌を噛み切って絶命する。

宮中の怪異と文宗の受戒、皇太子の急死

  • 以後宮中では怪異の噂が絶えず、文宗・卜答失里は不安から帝師輦真乞剌思のもとで受戒し、懿璘質班にも受戒させる。
  • 一方で故相鐵木迭兒の子・鎖住らが呪詛による反文宗の陰謀を企てるが発覚し、鎖住・観音奴・野理牙ら関係者は処刑される。さらに闊徹伯・脫脫木兒らが燕帖木兒打倒を図るが密告により失敗し、十二人が処刑される。
  • これらの内乱平定を受け、燕帖木兒らは文宗に尊号を奉り「欽天統聖至德誠功大文孝皇帝」と上る。諸臣は燕王(阿剌忒納答剌)の皇太子冊立を求め、卜答失里も強く働きかけ、ついに皇太子に立てられる。
  • しかし冊立の直後、皇太子は発病し全身に発疹が出て、うわ言のように「お前たちが立太子を望むなら、我ら二人(明宗夫妻)が命を取りに来た」と口走り、文宗は驚いて倒れ込む。

評語

著者は、八不沙皇后を殺したのは表向き文宗后・卜答失里と宦官拜住だが、真の元凶は文宗自身であると断じる。明宗后が非業の死を遂げて怨霊となったとの記述は史書に明文こそないが、無実の罪で毒殺された以上、怨霊となっても不思議はないとする(鄭の伯有の故事を引く)。さらに後年、文宗の子が早世した後に卜答失里が自らの子を差し置いて鄜王を、次いで妥歡帖睦爾を迎え立てたことも、明宗夫妻の祟りを恐れた行動と解釈すべきであり、これは荒唐無稽な作り話ではなく、道理に照らした推測であると結ぶ。