元史演義第三十八回 仏法を信じかえって寿の徴を促し、藩王を迎え大統を承く (信佛法反促壽徵  迎藩王入承大統)

張珪の最期

  • 泰定帝は張珪の辞職を許さず、西山での養病と蔡国公への加封を命じるが、張珪は再三の上奏の末にようやく帰郷を許される。その後も朝廷から呼び戻しの命があったが応じず、泰定四年に郷里で没する。

泰定帝の仏教への傾倒

  • 張珪という直言の臣を失った朝廷で、泰定帝はもっぱら仏事に熱中する。仏事のたびに数万人の僧に施し、各地に寺院を建立するなど巨費を投じる。
  • 皇后以下、帝師(亦思宅卜)から直接受戒し、帝師の一族にも王爵や印章が与えられ、僧侶が国公・司空などの称号を帯びて権勢をふるい、地方でも婦女への乱暴など横暴を極める。西台御史李昌が僧侶の駅伝濫用と婦女暴行を訴えるが、詔は出されても実効はない。
  • 顯宗(泰定帝の父・晉王)のための神御殿(大天源延聖寺)を盧師山に造営し、莫大な費用と労役を投じる。中書省の官吏が連名で財政悪化を諫めるが、詔で称賛されるのみで方針は変わらない。

相次ぐ怪異と改元

  • 頻発する仏事による赦免の乱発、次子誕生を仏の加護とみなしての溺仏、郊天祭祀を代拝で済ませる姿勢などが続く。
  • 帝師の死去に伴う大仏事、新帝師藏班藏卜の招聘、成宗の神御殿造営が続く最中、太廟から今度は武宗の金製神主まで盗まれるという事件が再発する。
  • 各地で水害・旱害・蝗害・地震が相次ぐが、泰定帝はひたすら西僧に祈祷させるのみで、ついに「致和」と改元する。無量寿仏戒を受ける盛大な儀式も催されるが、その場に集う僧侶たちの俗な振る舞いが皮肉交じりに描かれる。

懐王をめぐる政変の予兆

  • 出猟の際の感冒をきっかけに体調を崩した泰定帝は上都に遊幸し、政務を顧みなくなる。
  • 殊祥院使也先捏が丞相倒剌沙に、武宗の子で懐王の図帖睦爾(先に瓊州から召還され懐王に封じられていた)に異心ありと讒言。泰定帝はろくに調査せぬまま懐王の江陵移住を命じる。
  • 懐王が江陵へ移された直後の七月、泰定帝は上都で崩御(享年三十六)。

燕帖木兒の陰謀

  • 幼い皇太子をよそに丞相倒剌沙が独断専行し始めたことに、京師に留守を任されていた簽書樞密院事燕帖木兒(武宗以来の寵臣)が反発。
  • 燕帖木兒は武宗への恩義を口実に、継母察吉兒公主や腹心らと図って懐王図帖睦爾の擁立を密議する。
  • 泰定帝崩御後、皇后が印章接収の使者を送るが、燕帖木兒は西安王阿剌忒納失里を説き伏せ、百官を集めた席で武装した手勢を率いてクーデターを決行。抵抗した烏都伯剌・伯顏察兒・朵朵らを捕縛し、諸官を軟禁したうえで懐王の江陵からの迎立を進める。
  • 河南では平章伯顏が、反対する曲烈・別鐵木兒を斬って懐王への合流を決意し、迎えの兵を送る。懐王は河南で伯顏らに出迎えられ、そのまま北上を続けるところで次回に続く。

評語

元朝の仏教への傾倒は世祖に始まり代々深まったが、泰定帝の代でその弊害が極まったと著者は論じる。無量寿仏戒を受ける場面は僧侶の俗物ぶりを暴くために描いたものであり、世の信心深い者への戒めとする。泰定帝は在位五年、逆党誅殺も本心からではなく、その後の佞仏も内心の疚しさゆえの懺悔にすぎなかったのではないかと推測し、崩御後すぐに内乱が起きたことから仏の加護など無かったと皮肉る。燕帖木兒が懐王擁立に動いたのも忠義ではなく私心によるものであることを暗に示す。