元史演義第一十二回 中都を抜き兵を分け南略し、継嗣を立て西征を議定す (拔中都分兵南略 立繼嗣定議西征)
金公主との対面
- 成吉思汗は金の公主を伴い帰国する。公主は年若く成吉思汗は既に老年だが、大国の女として礼を厚くする。
金の遷都と蒙古の再侵攻
- 金主珣は諸臣の反対を押し切り都を汴京へ移し、完顏承暉・穆延盡忠らに中都を守らせる。成吉思汗はこれを和議違反とみなし激怒、金の降兵(乣軍)の内応も得て再び中都を包囲する。
木華黎の遼東攻略
- 木華黎は史天倪の献策により、金の喉元である遼東の北京城をまず攻略する方針を採る。金将銀青を撃破し、内紛に乗じて北京城の降伏を得る。
中都の陥落
- 金は李英を援軍に送るが、酒に酔ったまま蒙古軍に討たれ壊滅。中都は孤立し、完顏承暉は穆延盡忠らの罪状を訴える遺表を残して服毒自殺する。穆延盡忠は妃嬪を見捨てて逃走し、中都は陥落、宮殿は焼かれ金の宗廟の位牌は捨てられる。
金主の失政
- 汴京の金主珣は承暉を追封するにとどまり、盡忠を罰せず要職に就ける。後に盡忠は謀反で処刑される。
木華黎の華北平定
- 成吉思汗は潼関攻略に失敗し北へ引き上げ、木華黎を国王・太師に任じて華北経略を委ねる。木華黎は太原など河東諸州を平定。降将張柔は武仙・賈瑀らとの抗争を経て蒙古方につき、河北一帯で威勢を振るう。武仙はやがて真定城を献じて木華黎に降り、史天倪が河北西路の統治を任され武仙が副える(後の史天倪殺害の伏線)。
西遼の内紛と屈曲律の簒奪
- 乃蠻の屈曲律は西遼(耶律大石建国)の直魯克に頼り、その娘を娶って重用される。次第に権勢を強め、花剌子模王謨罕默德と結んで東西から西遼を挟撃、都を陥落させる。表向き直魯克を主に立てるが実権を奪い、直魯克は憂悶のうちに死去、屈曲律が位を継ぐ。屈曲律は仏教を奉じイスラム教徒を弾圧し、圧政で民の恨みを買う。
哲別の西遼平定
- 成吉思汗は哲別を派遣。哲別は旧信仰の復権と苛税撤廃で民心を得て、屈曲律は逃亡するも巴克達山で捕らえられ討たれる。西遼全土が蒙古の属領となる。
西征の発端
- 訛答剌城主が蒙古商人を殺害し、使者も殺されたことから成吉思汗は太祖十四年六月、親征を決意。忽闌夫人のみを従軍させる。
後継者の議定
- 出征前、皇后也遂の問いを機に四子を召し継嗣を諮る。察合台が朮赤の出自(母が蔑里吉に拉致された際の子)を持ち出し衝突するが、闊闊搠思の仲裁と成吉思汗の叱責で収まる。察合台は窩闊台を推し、朮赤も同意。窩闊台が継嗣に定まり、朮赤・察合台・拖雷にはそれぞれ封地が与えられることとなる。
西夏の拒否と出征
- 西夏に従軍を求めるが拒まれ、成吉思汗は後日の征討を誓う。出発に際し季節外れの大雪が降り、傍らの者がこれを天が殺伐を助ける瑞兆と説き、成吉思汗は喜ぶ。
評語
- 金主珣の遷都は失策であり、蒙古が理由をこじつけて再侵攻したにすぎないと指摘。屈曲律の簒奪の手口を狡猾と評しつつ、それが蒙古の西征を招く結果になったとする。成吉思汗は武力に優れるが文教に乏しく、後継者選定で早くも兄弟の不和の種を蒔いた点を、武力による天下取りの限界として批判する。