元史卷二百六 列傳第九十三 阿勒呼木特穆爾

出自と反乱の経緯

  • 阿勒呼木特穆爾は默哷大王の裔である。かつて太宗には七子があり、默哷はその第七子。世祖が天下を定めた後、宗親を大いに王に封じた際、默哷もその一人となった。
  • 默哷は托和を生み、托和は温都爾を生み、温都爾は圖們を生んだ。圖們は至大元年に初めて陽翟王に封ぜられ、金印螭紐を賜り北藩の鎮護を命じられた。爵位は圖們から庫春、庫春から太平、太平から特穆爾齊へと伝わり、阿勒呼木特穆爾が襲封した。
  • 汝潁で兵乱が起こり天下が震動すると、帝はたびたび北方の宗王に南討を命じた。阿勒呼木特穆爾は国事の立て直しが困難であると見て取り、隙に乗じて数十万の衆を擁して穆爾古珠の地に屯し、宗王を脅して叛かせ、さらに使者を遣わして帝に「祖宗が天下を汝に付したのに汝はなぜその大半を失ったのか。国璽を我に授けよ、我が自らこれを為そう」と言わせた。
  • 帝はこれを聞いても神色自若とし、「天命には定めがある。汝がなりたいならなればよい」と徐ろに答え、詔を降して悔い改めるよう論した。しかし阿勒呼木特穆爾はこれに従わなかった。

鎮圧

  • 帝は知樞密院事圖沁特穆爾らを遣わしてこれを撃たせた。青海に至り哈喇齊の民1万人を軍として起こしたが、これらは元来兵に慣れておらず、いきなり戦わせたところ、陣を布いてまだ交戦もせぬうちに号衣を脱いで阿勒呼木特穆爾の軍中へ逃げ込み、圖沁特穆爾の軍は敗績し、単騎で上都に還った。
  • 至正21年、改めて少保知樞密院事の婁章に命じ、兵10万でこれを撃たせ、あわせて阿勒呼木特穆爾の弟呼圖克特穆爾を従軍させたところ、その衆を大いに破った。
  • 阿勒呼木特穆爾は東方への逃亡を謀ったが、その部将托歡は形勢窮まったと悟り、宗王囊嘉特・伊蘇・烏爾圖華とともに阿勒呼木特穆爾を捕らえて献じ、帝はこれを誅した。
  • これにより婁章は太傅に加えられ、托歡は遼陽行樞密院事を知ることとなり、呼圖克特穆爾が陽翟王を襲封した。また宗王囊嘉特らも悉く加封が議され、まもなく婁章はさらに和寜王に封じられ、嶺北行省丞相知行樞密院事として北藩の鎮護に当たった。