出自と李璮への出仕
- 王文統、字は以道、益都の人。若い頃から権謀の書を読み、言葉で人を動かすことを好んだ。諸侯に遍く仕官を求めたが用いられず、李璮を訪ねると李璮は語らって大いに喜び、幕府に留め置いた。
- 李璮はその子彦簡に王文統を師事させ、王文統も娘を李璮に嫁がせた。これにより軍旅の事は悉く王文統に諮り決するようになり、毎年辺功を誇張して敵勢を誇大に報告し自らの地位を固め、官物を用いて私恩を施した。宋の漣・海二郡を取った策謀もすべて王文統の謀であった。
中書省での施政
- 世祖が潜藩にあった頃から才智の士を訪ね、その名を聞いており、即位して善政を求めるに至り、推薦する者があって王文統を急ぎ召し用いた。中書省を立てて内外百官の政を総轄させると、真っ先に王文統を平章政事に抜擢し、諸事の刷新を委ねた。
- 建元して中統とし、詔で天下に十路宣撫司を立てることを諭し、条格を示して差発を弁じさせつつ民を煩わせず、鹽課の常額を失わず、交鈔の流通を滞らせないようにした。
- 中書省に中統元寳交鈔を造らせ、潁州・漣水・光化軍に互市を立てた。この年冬、初めて中統交鈔を10文から2貫文まで10等を発行し、年月を限らず諸路に通行させ、税賦の収納にも用いさせた。
- 翌年2月、世祖は開平にあって行中書省事のワグマステ(瑪穆特)と王文統に、各路の宣撫使を率いて共に朝廷に出仕するよう命じた。世祖は前年秋以来北方で叛王額哷布格を親征しており、民間の差発・宣課・鹽鐵などの事は一切王文統らに裁処を委ねていたが、凱旋後にその可否を確かめるため、また従来は用兵に急で紀綱を整える暇がなかったのを今こそ正すべきだとして王文統らを召し、成果を厳しく求めた。
- 㳺顯・鄭鼎・趙良弼・董文炳らを各路宣撫司に任じ、議定した条格を再び諸路に諭して遵行させ、さらに宣撫司・達嚕噶齊・管民官・課税所官らに私鹽・酒・醋・麴貨などの禁令を厳守するよう詔した。
排斥と讒言
- 王文統は人となり猜忌心が強かった。中書省が立った当初、張文謙が左丞であったが、文謙は常々安国利民を自任し、議論のたびに王文統と可否を異にすることが多かった。王文統は積もる不満から陥れることを画策し、文謙はついに本職のまま大名等路宣撫司事に転出させられた。
- 当時、姚樞・竇黙・許衡はいずれも世祖が敬信する人物であったが、王文統は世祖に諷して姚樞を太子太師、竇黙を太子太傅、許衡を太子太保に任じさせた。外見は尊崇するようでいて、実は朝夕の顧問として左右に置かないための策であった。
- 竇黙はかつて王鶚・姚樞・許衡とともに世祖に侍った際、面前で王文統を非難し「この者は学術が正しくなく必ず天下に禍いする、宰相の位に置いてはならない」と言った。世祖が「ならば誰が適任か」と問うと、竇黙は許衡を推した。世祖は不機嫌となりその話は流れた。
- 竇黙はまた王鶚とともに、右丞相史天澤に国史の監修、左丞相耶律鑄に遼史の監修、王文統に金史の監修を求めたが、世祖は「監修の階銜は修史の時に定める」と答えた。
- さらに翌年2月、李璮が反して漣海三城を宋に献じた。これに先立ち、その子彦簡が京師から逃げ帰った際、李璮は人を遣わしてこれを中書に告げていた。反乱の報が届くと、人々は皆、王文統がかつて子の蕘を遣わして李璮と音信を通じていたと言った。
李璮反乱への関与発覚と誅殺
- 世祖は王文統を召して問い質し、「汝が李璮に逆を教えて年久しく、天下皆これを知る。今汝が策とした内容を問う、悉く答えよ」と言った。王文統は「臣もまた忘れました、書き記して奉ります」と答え、書き終えたものを世祖が読ませると、その中に「螻蟻の命、なお存全を得れば陛下のために江南を取らん」との文言があった。世祖は「汝は今なお朕に言を緩めようとするのか」と言った。
- ちょうど李璮が使者に王文統の三通の書状を持たせて洺水から届けたので、これを示すと王文統は初めて驚愕して汗を流した。書中には「甲子を期す」との語があり、世祖が「甲子の期とは何か」と問うと、王文統は「李璮は久しく反心を蓄えており、臣が中枢にあるため即座には発せずにいた。臣は陛下に告げて李璮を縛ろうとしていたが、陛下が北方に加兵してなお平定していなかったため、甲子までにはなお数年あると見て、反乱の期を遅らせるためにこう言ったのです」と答えた。
- 世祖は「多言するな。朕は汝を布衣から抜擢して政柄を授けた。汝を薄遇したことはないのに何を負って此をなしたのか」と言った。王文統はなおも枝葉の弁解を重ね、終始自ら罪が死に当たると認めなかったため、左右に命じて退けさせ、縛につかせた。
- さらに竇黙・姚樞・王鶚・僧の子聰、張柔らを召し、前の書状を示して「汝ら、王文統は何の罪に当たると思うか」と問うと、文臣は皆「人臣に将(クーデターの意図)あれば必ず誅す」と言い、張柔だけは声を張り上げて「剮(凌遅)にすべし」と言った。世祖がさらに「汝ら同じ意見か」と問うと、諸臣は皆「死に当たる」と答えた。世祖は「彼もまた朕の前で自ら服したのだ」と言い、王文統とその子蕘を誅した。
- 詔で天下に諭して曰く、「人臣に将なきこと千古の彝訓、国制に定めありて二心を懐く者は必ず誅す。輔弼の臣がかくも姦邪の志を蓄えるとは思いもよらなかった。平章政事王文統は下列より起こり台司に擢せられ、委任は深からざるにあらず、待遇は厚からざるにあらず、成効を収めて丕平を致さんとしたのに、李璮との共謀を知りながら密かに子の蕘を遣わして通じ、近ごろ得た親書数幅により反状が久しいことが明らかとなった。累年に及んだので肆市の誅を加え、滔天の悪を著すべきである。今月23日をもって、まさに反せんとした臣王文統とその子蕘を正典刑に処した。ああ、国恩を負って大逆を謀り、死してなお余罪あり。相位にあって極刑を被ったこと、あるいは未だ喩されぬ者もあろう、汝ら群衆はこの朕の心を体せよ」とした。
- 王文統は反によって誅されたが、元の立国における規模・法度は、世に王文統の功によるところが多いと評された。