保賽音布哈(字徳中)と張庸
- 保賽音布哈は字を徳中、素隆噶台(スロンガタイ)の人。膂力があり騎射を善くした。舒庫爾齊(シュクルチ)より利器庫提点を授かり、再転して資正院判官となり、累遷して同知枢密院事となり、翰林学士に遷り、まもなく承旨に陞り虎符を賜り兼ねて巡軍合浦・全羅等処軍民万戸都元帥となった。大司農を除され、出て嶺北行省右丞となり平章政事に陞った。至正24年(1364年)甘粛行省は博囉特穆爾(ボロテムル)が皇后・皇孫を矯りて弑したとして人を遣わして事を告げ、平章政事の伊蘇岱爾(イスダイル)はすぐに衆に諭す榜に署名しようとしたが、保賽音布哈はこれを不可とし「これは大事、どうして軽々しく信じられようか、しかも符験や公文もない」と言い、ついに榜に署名しなかった。まもなく果たしてこれは妄伝であることが判明した。折しも皇太子が冀寧で軍を撫していたが制を承けて保賽音布哈に翰林学士承旨を拝させ、集賢大学士に遷り、さらに宣政院使となり、ついに中書平章政事を拝命した。
- 大明の兵が京師に迫ると、詔で保賽音布哈に兵をもって順承門を守らせたが、その率いる兵はわずか数百の疲弊した卒に過ぎなかった。嘆息して左右に「国事はここに至った、私はただこの門と存亡を共にすることを知るのみだ」と言った。城が陥落すると捕らえられ主将に見え、ただ速やかな死を請い少しも屈しなかった。主将は営中に留めるよう命じたが、ついに屈せず殺された。この時、張庸という者があり字は存中、温州の人。性は豪爽で太乙数に精通し、折しも世が乱れると策をもって経略使の李国鳳に干し、制を承けて庸に福建行省員外郎を授け、杉関で兵を治めた。まもなく事を計るため京師に赴き太乙数図を進めると順帝は喜び祕書少監に抜擢した。皇太子が大撫軍院を立てると庸に房山の団結を命じ、同僉将作院事に遷り、さらに刑部尚書を除され、なお団結を領した。諸寨がすでに降ると庸は駱駝谷を守り、従事の段禎を遣わして庫庫特穆爾(ココテムル)に援を請うたが応じられず、庸は独り堅守して拒戦したが衆はまさに潰えようとしていた。まもなく寨民の李世傑が庸を捕らえて出降し主将に見えさせたが、庸は屈せず、禎と共に殺された。