元史卷一百九十五 列傳第八十二 托里布哈

托里布哈(字端甫)

  • 托里布哈は字を端甫、蒙古人。初め宿衛官となり累歴して顕要に至り遼陽行省右丞に抜擢され、平章政事に陞った。陳友諒が江西を陥すと詔で江西行省平章政事を拝命し、平章政事の阿爾和碩(アルホショ)らと分道して進討し、海を泛んで南下し広東に趨いた。揭陽に駐屯すると土寇の金元祐が降り循・梅・恵三州の寇を招復した。制を承けてその酋長を官にし賊を治めさせ兵食を給し、さらに別に粟4千石を規して京師に輸送させた。これにより英・肇・欽・連の諸郡もみな帰附し、さらに兵を治め梅嶺を経て江西を図ろうとしたが、元祐に異心があり、その土地を鎮服するためと称して道を遮り固く留めた。
  • これより先、制書で劉巨海に広東元帥府事を僉じることが命じられていたがまだ発表されておらず、元祐は密かにこれを盗み名を易えて猺賊の劉文遠に私かに授け、共に乱を起こすよう誘った。事が発覚し文遠は誅に伏したが、元祐とその弟元泰の子榮は逃亡して捕らえられなかった。まもなく榮は外賊を率いて突入し符信を奪って官吏を殺し、事変は倉卒として起こり衆は支えられなかった。托里布哈は参政の楊泰元らと兵を勒めて拒戦したが、賊はさらに増え、托里布哈は槍に当たり重傷を負った。子の達蘭布哈(ダランブハ)は麾下を率いて力を尽くして抗い死んだ。托里布哈はついに捕らえられ太平橋まで連行されたが罵り続け、ついに賊に殺された。妻の布延(ブヤン)氏、妾の高麗氏は側にいて逃げず、みな大罵し「私の平章はお前ら父子を厚遇していたのに、お前ら父子はどうしてここまで恭順を欠き逆らうのか」と言い、やはり殺された。その部将の哈奇爾(ハキル)・呉布延(ウブヤン)・阿拉克布哈(アラクブハ)・廸延布哈(ディエンブハ)らもみな戦死した。