元史卷一百九十五 列傳第八十二 劉濬

劉濬(字済川)

  • 劉濬は字を済川、その先は興州の人。曾祖の海金は進士第一人に及第し河南府尹に至り国難に死んだ。子孫はこれにより河南に家を構えた。濬は廉訪司書吏より連江県寧善郷巡検に調された。至正13年(1353年)江西の賊帥王善が閩を寇し、官軍は羅源県を守ってこれを拒んでいたが、羅源は連江と境を接しその勢いは濬に迫りつつあった。濬の妻は真定史氏、故相の家の娘であり、濬に「事は急である、兵を集めて一方を守るべきだ」と言い、奩中の財をすべて出して壮士百余人を募り、次男の健にこれを統率させた。10日ほどの間に衆は数万に達した。賊はまもなく羅源を破り2道に分かれて福州を攻めた。濬は辰山でこれを拒み三戦三勝したが、まもなく福州陥落を聞くと衆は多く潰えて去った。濬は独り健の兵を率いて進み賊に中麻で遭遇しその陣を突いて前鋒5人を斬ったが、賊兵は大挙して至り鏖戦すること3時(6時間)に及んだ。濬は矢に当たり馬から墜ちると健が下馬して助け起こしたが、ともに捕らえられた。濬は憤って刃を手に大罵したが、賊は濬を階下に縛り、まず指を1本斫った。濬の罵りはますます激しく、また1本斫られてもそれは同じであった。指がすべてなくなると両腕、次に両足が斫られたが濬の色は少しも変わらず罵り声は絶えなかった。ついにその喉と舌が割かれて死んだ。健もまた死を賭して賊を拒んだので、善はその義を認め健を釈放し濬の屍を斂めさせた。
  • 健は帰ると帥府に父の讐を復すための兵を請うたが聞き入れられなかった。健は家財を尽く散じて死士百人を結び、工商や流丐を装って賊中に入り、夜半に火を放って大いに騒がせ、賊は驚き乱れ自ら相い屠り殺し合った。健は自ら父を殺した張破四を斬り、さらに善と賊首の陳伯祥を捕らえて献じ磔にした。事が聞こえ濬に福建行省検校官を追贈、健に古田県尹を授け、福州北門外に濬の祠を立てて有司が歳時に祭祀することとされた。