元史卷一百九十五 列傳第八十二 周鏜

周鏜(字以聲)と謝一魯

  • 周鏜は字を以聲、瀏陽州の人。篤学で春秋に通じ泰定4年(1327年)進士第に及第、衡陽県丞を授かり大冶県尹に再転した。県に豪民がいて官府の弱みを握り難治と号されていたが、鏜は見かけは弱そうで実は毅然として威があり犯し難く、豪強を抑え窮民を恵み、治行は諸県の最とされた。国子助教に累遷し、功臣列伝の編纂に際し翰林国史院編修官に抜擢されたが、出て四川行省儒学提挙となり便道で帰郷した。まもなく盗が起こり湖南北の郡県はみな陥ったが、瀏陽は城守もなく賊が至ると民はみな驚き竄げた。鏜は兄弟に遠く逃げるよう告げ、自らは「私は国恩を受けた身、もし不幸にあっても必ず死ぬ、お前らに累を及ぼしてはならない」と言った。賊は至って鏜を得ると推して主にしようとしたが、鏜はただ目を瞠り厳しい声で大いに罵った。賊はその屈しないことを知りこれを殺した。
  • 鏜と同時代に謝一魯という者があり、字は至道、やはり瀏陽の人。至元乙亥(1335年)郷貢進士で、かつて石林書院の山長を務めた。賊が潭州を陥すと一魯は親を奉じて巌谷に匿れ、官兵が郡邑を回復すると逃亡した者はやや戻り、一魯もまた戻って旧業を治めた。まもなく賊が再び至り、一魯を生きたまま縛った。一魯は賊を激しく罵り、一家がみな殺害された。