全布延薩里(字子仁)と噶海齊
- 全布延薩里は字を子仁、高昌の人。初め中書省検校であった時、太師の旺嘉努(ワンジャヌ)が権を専らにし専横し、台諫の官は誰も敢えて言う者がなかったが、布延薩里は独り衆の中でその過失を歴数し、諤諤として懼れる色がなかった。監察御史を拝命するとすぐに旺嘉努の10の罪を弾劾し、これにより黜けられたが気節はますます自ら奮い、挫けることなく歴代の権貴を詆り、朝臣は誰も畏懼しない者はなかった。出て広東廉訪使、まもなく兵部尚書を除され、まもなく贛州路達嚕噶齊を授かった。郡に至ると奸悪を摘発し一郡は粛然とした。至正11年(1351年)潁州で盗が起こると、すぐに城塁を修築し、旬月の間に守禦の具はことごとく備わった。これにより公帑を発して勇士を募り兵3千人を得て日々練習させみな使えるようにした。属邑で賊に陥落した所があれば往々にして兵を遣わして復し、境内はことごとく安んじた。16年(1356年)功により江西行省参政を拝命、贛に分省した。
- 18年(1358年)江西下流の諸郡はみな陳友諒に拠られたが、総管の噶海齊(ガハイチ)と力を戮せ共に守った。友諒はその将の幸文才に兵を率いて贛を包囲させ人を遣わして降を脅したが、布延薩里はその使者を斬った。日々甲を着て城に登りこれを拒み力戦すること凡そ4ヶ月、兵は少なく食は尽きた。義兵万戸の瑪哈瑪迪沙(マハマディシャ)が城をもって賊に降ろうとしたが、布延薩里は従わずついに自ら頸を刎ねた。事が聞こえ朝廷は諡を儆哀とした。噶海齊は贛を守り殊に功があったが、城が陥落した日、賊将は脅して降を求めたところ噶海齊は「お前と戦ったのは私だ、賊よお前らは贛の民を殺すな、私を速やかに殺すべきだ」と言い、ついに殺された。