元史卷一百九十五 列傳第八十二 樊執敬

樊執敬(字時中)

  • 樊執敬は字を時中、済寧鄆城の人。性は警敏で学を好み、国子生から擢んでられ授経郎となった。かつて帝師に会っても拝しなかった。ある人が「帝師は天子が常に崇重し王公大臣も見れば必ず俯伏して礼を作す、公だけが拝さないのはなぜか」と尋ねると、執敬は「私は孔氏の徒、孔氏を尊ぶことを知るのみ、どうして異教を拝そうか」と答えた。歴官して侍御史に至り、至正7年(1347年)山南道廉訪使に抜擢、まもなく湖北道に移り、10年(1350年)江浙行省参知政事を授かった。
  • 12年(1352年)2月、平江で海運を督し10日で出発しようとした際、官は海口で大いに宴を催し犒っていたが、俄かに客船が外から至り、その券を検証して信じ入れさせたところ、それが海寇であることを予想しなかった。港に入るとすぐに火を放って鼓譟し、事変は倉卒として起こり軍民は擾乱し、賊はついに舟を焼き糧を劫して去った。執敬はすでに崑山に走り入り、防備を失ったことを自ら咎めて心は鬱々として解けなかった。省に還ると昱嶺関に警急があり、平章政事の伊嚕特穆爾(イルテムル)が軍を率いてこれを拒んでいたが、伊嚕特穆爾はまもなく病で卒し、賊はついに餘杭を犯した。執敬は時にすでに海上の賊討伐を命じられていたが、事態が急になり去ることができず、平章政事の鼎鼎とともに省中で事を治め兵を調して出戦させたがいずれも不利であった。掾史の蘇友竜は元来抗直な人物で執敬に「賊がまさに至る、城内は空虚で備えがない、どうするのか」と進言すると、執敬は「私は戈矛を研ぎ賊を殲滅して国に報いようとしている、たとえ克てなくとも死あるのみ、何を畏れよう」と言った。
  • まもなく賊がすでに至ったとの報せに、執敬はすぐ馬に乗り衆を率いて出た。中途で賊に遭遇し矢を射て賊4人を死なせた。賊はさらに追ってきたので3人を射殺した。まもなく賊が大挙して押し寄せ街巷を埋め尽くし火を放つと衆はみな潰えて去った。賊は執敬に援がないことを知り呼びかけて降を勧めたが、執敬は怒って叱し「逆賊め、関を守る吏が慎まなかったせいでお前らがここまで来られた、お前らを万段に砕けないのが恨めしい、何が降伏か」と言い、刀を奮って賊を斫ったが槍に当たり落馬した。従僕の田額森が馳せて救おうとしたがやはり槍に当たり死んだ。事が聞こえ翰林学士承旨・栄禄大夫・柱国を追贈、魯国公に追封、諡は欠。