出自と衢州での治績
- 巴延布哈徳濟は字を蒼崖、輝和爾氏。駙馬都尉・中書丞相・高昌王に封じられた舒蘇徳濟の孫、駙馬都尉・江浙行省丞相・荊南王に封じられた多喇徳濟の子。倜儻で学を好み音律に通じた。初め父の廕により信州路同知事となり、建徳路に移った。折しも徽州の寇が遂安を犯すと、巴延布哈徳濟は義兵を率いてこれを平定し、さらに淳安の叛賊方清をも捕らえ、功により本路総管に陞った。至正16年(1356年)衢州路達嚕噶齊を授かる。翌年、行枢密院判官の鄂爾和(オルホ)が兵を率いて衢州を経る際、軍紀が乱れ通過するたびに大いに剽掠したので、巴延布哈徳濟は「鄂爾和は官軍でありながら民の患いをなす、これは国賊ではないか、放置してよいものか」と言い、兵を率いてこれを境外に逐い、郡はこれに頼って安んじた。浙東都元帥に陞り衢州を守禦した。まもなく江東道廉訪副使に抜擢され階は中大夫。18年(1358年)2月、江西の陳友諒が賊党の王奉国らを遣わし号20万をもって信州を冦した。
信州籠城戦
- 翌年正月、巴延布哈徳濟は衢から兵を率いて援軍に赴き、城東で奉国に遭遇して力戦しこれを破走させた。時に鎮南王の子大勝努、枢密院判官の席閏らが城中に兵を屯していたが、巴延布哈徳濟の到来を聞き争って門を開いて出迎え馬前に羅拝した。巴延布哈徳濟は城に登り四顧して賊を破ることを誓った。数日後、賊は再び城を攻めた。巴延布哈徳濟は士卒を大いに饗し「今日賊を破る、命に従わない者は斬る」と約した。大都閭を左翼として阿蘇の諸軍と民義を将いて南門から出し、高義・范則忠を右翼として信陽軍を将いて北門から出し、自らは呼図克布哈(ホトクブハ)とともに沿海の諸軍を中軍として西門から出た。部伍が整うと奮撃して賊営に入り数千級を斬った。賊は乱れ奉国をほとんど捕らえかけたが、折しも賊将が突然至り我が軍で賊営に入った者はみな没し、危機に陥ったが呼図克布哈が再び兵を勒めて力戦し大いにこれを破った。
- 2月、友諒の弟友徳が城東に営を構え城を巡って柵を植え攻撃はさらに急となった。また偽万戸の周伯嘉を遣わして高義に降を説かせ、高義は密かに通じ、呼図克布哈らを欺いて奉国と会見すれば兵を解くことができると言った。呼図克布哈はこれを信じ則忠ら10人を率いて奉国に会いに行ったが、囚われて帰されなかった。翌日、奉国は高義に計をもって巴延布哈徳濟を誘わせた。時に巴延布哈徳濟は城上に座しており、高義が単騎で来るのを見て「お前は十帥を誘って一人も戻さなかった、今また私を誘いに来たのか、私の頭は断てても足は動かせない」と言い、その罪を数えて斬った。これより昼夜賊と鏖戦し糧は尽き矢も尽きたが気は少しも衰えなかった。
- 夏4月、城下で大声を上げる者があり「詔がある」と言った。参謀の海瑠丹が城に臨んで問うと「どこから来た」と言い「江西から来た」と答えた。海瑠丹は「それなら賊であろう、我らは元朝の臣子、どうしてお前の偽詔を受けようか」と言った。呼ぶ者は「我が主は信州が久しく下らないと聞き、お前の忠義を知って来て詔を出した、いたずらに空城を守って何をしようというのか」と言った。海瑠丹は「お前は張睢陽の事を聞いたことがあるか」と言うと、偽使者は答えず去った。巴延布哈徳濟は笑って「賊は私を降らせようとしている、城が存すれば私も存し、城が滅べば私も滅ぶ、私はこれをよく考え抜いている」と言った。時に軍民はただ草苗と茶紙を食い、それも尽きると靴底を集めて煮て食べ、さらに鼠を捕らえ雀を網で捕り、老弱を殺してまで食に充てた。
落城と殉節
- 5月、大いに賊兵を破った。6月、奉国が自ら城を攻め昼夜休むことなく10日余りに及んだ。賊はみな地に穴を掘ること百余所、あるいは魚貫して梯で城に登った。巴延布哈徳濟は城に登り兵を麾いて拒んだが、まもなく士卒は力尽き戦えなくなり、万戸の奎瑪里(クイマリ)が城をもって叛し城はついに陥落した。席閏は出て降り、大勝努・海瑠丹はみな死んだ。巴延布哈徳濟は力戦して勝てず、ついに自刎した。その部将の蔡誠は妻子を尽く殺した後、蔣廣とともに力を奮って巷戦し、誠は害に遭って死に、廣は奉国に捕らえられた。奉国は廣の勇敢を愛し降伏させようとしたが、廣は「私はむしろ忠に死ぬ、降って生きることはしない、お前らは草中の一盗にすぎない、どうしてお前に屈しようか」と言った。賊は怒り廣を竿に磔にしたが、廣は大罵しながら絶命した。信の小民に陳受という者があり、巴延布哈徳濟はその膂力を知り義兵に募っていたが、まもなく戦に敗れ賊に捕らえられ、痛罵して屈せず賊に焼き殺された。
- これより先、巴延布哈徳濟が信州への援軍に赴く際、かつて南を望んで涙を流し「私は天子のために憲を司る者、あの城の危急を見て坐視できようか、私は上は天子に報い下は生民を拯うことを知っている、その他は恤するに足りない、ただ気にかかるのは太夫人だけだ」と言った。その日のうちに母の鮮于氏を拝して「私は今後母に仕えることができません」と言うと、母は「お前が忠臣となるなら私はすぐに死んでも何の憾みがあろうか」と言った。鮮于氏は太常典簿の樞の娘であった。巴延布哈徳濟は子の額森布哈にその母を奉じて間道から福建に入らせ、江東廉訪司の印を送って行御史台に届けさせた上で、力を尽くして孤城を守り死んだ。朝廷は諡を桓敏と賜った。