沿江防衛での戦功
- 尼雅斯拉鼎は字を士瞻、父の瑪哈穆特(マハムート)は襄陽攻めに従い労により濬州達嚕噶齊に抜擢され、これにより大名に家を構えた。尼雅斯拉鼎は郷貢進士に挙げられ淮東廉訪司書吏に補せられ、母の喪に服し喪が明けると両浙塩運司掾に補せられ、さらに淮東宣慰司掾に辟された。至正10年(1350年)賊が真州で発すると、尼雅斯拉鼎は民兵をもってこれを襲い賊42人を捕らえた。まもなく泰州で賊が熾んになると、鎮南王府宣慰司は軍事への参画を求め、尼雅斯拉鼎は四城を築き外寨を立て堤を建て河を穿ち、兵を募って賊に抗することを建議した。行省はその戦艦60、海舟14を提督させ江面を上下巡捕して固めさせ、さらに蒙古軍500を護衛させて江寧に向かわせた。道で賊に遭うと斬撃200余級、生獲18人に及び、龍潭に至って還った。
- まもなく江上を巡邏に出ると賊が突然至り舟を馳せて戦いを挑んできたが、尼雅斯拉鼎は自ら射て賊30人を死なせ、その放火用の小船200艘を奪い、賊は逃げ去った。まもなく再び龍潭口に拠ったのでこれを撃退し、斬首300余級を追撃した。子の宝通は首賊の陳亜虎らとその号旗を捕らえた。捷が聞こえ賞賚は篤く、尼雅斯拉鼎は真州に召還されたが賊が蕪湖を犯すと南行台は檄を発してこれに援軍を出させた。至ると賊船はすでに岸に迫っていたので戦艦を三分してこれを縦撃し、賊は奔潰し俘斬は甚だ多く、賊が江を渡れなかったのは尼雅斯拉鼎の功であった。そのまま蕪湖江口に留守した。
高郵での最期
- 泰州の李二が蜂起すると行省はこれを高郵の得勝湖で防がせた。賊船70余艘が風に乗って来たので、すぐに前進してこれを撃ち20余船を焼くと賊は潰えて去った。李二は援を失いその党は降伏したが、張士誠は李二を殺しさらに乱をなし参政の趙璉を殺害して興化に拠り、水陸から高郵を襲い東門に屯兵した。尼雅斯拉鼎は舟師をもって諸軍と会し討伐に向かい、三垜鎮まで至ると賊衆が突然至り、尼雅斯拉鼎は兵を麾いてその鋒を挫いたが、後方の賊が鼓譟しながら前進してきたので、火筩・火鏃を発してこれを射ると、死者は流れを蔽って下った。賊は舟を背後に繚らせ全力で攻めてきたが、阿蘇衛軍および真滁万戸府等の官は賊の勢いが盛んなのを見てみな遁走した。尼雅斯拉鼎は必死を覚悟し、3人の子の宝通・海瑠・丹錫卜沙魯(タンシブサル)に「お前らは逃げよ」と言ったが、宝通らは去ろうとせずみな共に死んだ。省憲はその家に賻し、事が聞こえ尼雅斯拉鼎に淮西元帥府経歴を追贈した。