淮南江北行省での防戦と戦死
- 趙璉は字を伯器、趙宏偉の孫。至治元年(1321年)進士第に登り嵩州判官を授かり、汴梁路祥符県尹に再調され、入って国子助教となり累遷して湖広行省左右司郎中となり、杭州路総管を除された。杭は東南で劇郡と称され、地は大きく民は多く長吏の多くはその職に相応しくなかったが、璉は強毅で開敏、精力は人に絶し、吏はその明決に服し欺くことができなかった。浙右は徭役に苦しみ坊里正を務める者はみなその家を破ったので、朝廷は行省に郡守を召集し便民の法を議させた。璉は属県の坊正を雇役化し里正の職を田賦に基づいて均すことを建議し、民はみなこれを便とした。ある盗が同悪を誘い刃を持って市に出て人を斫り金を索りようとしたが、市民は戸ごとに金を集めて与えようとし、誰も敢えて言い出さなかった。璉は「これを長らえさせてはならない」と言い卒を遣わして掩捕し、市でことごとく戮した。
- 1年余りで召されて吏部侍郎を拝命、杭の人々は璉を思いその政績を碑に刻んだ。中書左司郎中を歴任し礼部尚書を除され、まもなく戸部に遷り中書省事の参議を拝命、出て山北遼東道廉訪使となった。この時河南で兵が起こり湖広・荊襄はみな陥り、両淮もまた騒動した。朝廷は河南の地を分析し淮南江北行省を揚州に立て、璉を参知政事とした。璉は折しも水腫を患っていたが、輿に乗せられたまま病をおして赴いた。至ると分省を淮安に鎮め、さらに真州に移り鎮した。折しも張士誠が反乱を起こし海浜に突起し泰州・興化を陥したので、行省は兵を遣わして討たせたが克てず、高郵知府の李齊を遣わして招諭させた。士誠はこれにより降を請い、行省は民職を授け、さらに征討に従い自ら効することを乞うたので、璉を泰州鎮に移した。璉は士誠に戈船を治め濠・泗に趨るよう促したが、士誠は疑い憚って発しようとせず、また璉が無備であることを覗い知って再び反した。夜四鼓に火を放って城に登り、璉は病をおして佩刀を捫り馬に上り賊と市街で戦った。賊は璉を囲み、その舟に招き寄せ、璉は詰って「お前らの罪は赦されないものであった、今すでにこれを許して誅戮せず、さらに名爵を賜った、朝廷はお前らに何を負ったというのか、それなのに既に降りながら再び反するのか、お前は信を棄て天に逆らい滅びは踵を旋らせぬうちに来よう、私は執政の大臣、どうしてお前ら賊のために屈しようか」と言い、すぐに騎を馳せて奮撃した。賊は槊で璉を撞き地に墜とし、舁いてその舟に上げようとしたが、璉は目を瞋らせ大罵し、ついに死んだ。その僕の揚児は身をもって璉を蔽ったがやはり共に死んだ。乱が平定されると州民はその屍を収めて真州に持ち帰り殯った。事が聞こえ鈔300錠を賻し、諡は忠定、その子の錡に官を授けた。
- 弟の琬、字は仲徳、官は台州路総管に至った。至正27年(1367年)方国瑛が舟で琬を挟んで白龍奥に密かに登らせ、民家に舎らせたが、琬は絶粒して食べず、人が食を勧めても目を瞑ってこれを退け、7日で死んだ。