喜同(周姓)
- 喜同は周姓、河西の人。初め後宮の衛士となり衆にその才を称され承徽寺経歴に選ばれ、再び南陽県達嚕噶齊に調された。2年居た頃、妖賊が起こり鄧州を陥し人情は洶洶となった。まもなく賊の鋒先は南陽に至ったが、南陽は城も兵もなく賊はまるで無人の邑のように入った。喜同は計をもって数人の賊を捕らえ、詰問すると賊が大挙して至ろうとしていると分かり、これを悉く斬って人心を安んじた。昼夜丁壮を督して巡邏・守備させた。時に大司農の錢穆爾(チエンムル)が兵を諸葛庵に駐屯させていたが賊に襲われて死に、賊は勢いに乗じて南陽を取った。喜同は西門を守り賊の勢いが盛んなのを見て死を自ら覚悟し、家人と訣別して「私とお前らは互いに顧みることはできない、ただそれぞれ生を逃れよ、私はここに死んで国に報いる分だ」と言った。まもなく城中はみな哭泣し、喜同は義兵を策励して力を奮い賊と搏った。賊は退いたが翌日再び至り激しく戦い、賊数百人を殺した。賊は後援がないことを知ると戦いはますます急になり南陽はついに陥落した。喜同は囲みを突破して脱しようとしたが、賊が横から馬を刺し馬は倒れた。喜同は鞭打って馬を躍らせ起こし、手ずから刺した賊を斬ったが、まもなく他の賊に追いつかれ数槍を身に受け戦えなくなり、捕らえられて殺された。妻の邢氏は喜同が力戦して死んだと聞き、家僮数人を率いて出て走ったが賊に遭い、賊の刀を奪ってこれを斬りつつ罵りながら進んだが、やはり殺された。一家の死者は20余人に及んだ。南陽路判官を追贈された。