元史卷一百九十四 列傳第八十一 郭嘉

郭嘉(字元礼)

  • 郭嘉は字を元礼、濮陽の人。祖父の昻、父の恵はいずれも戦功で顕れた。嘉は慷慨で大志があり、国子生から泰定3年(1326年)進士第に登り、彰徳路林州判官を授かり、翰林国史院編修官に累遷、広東道宣慰使司都元帥府経歴を除された。まもなく入って京畿漕運使司副使となり監察御史を拝命した。折しも朝廷が海寇の蜂起を受け浙東の温・台・慶元等路に水軍万戸を立て鎮めようとした際、衆論は紛紜として定まらなかったが、嘉は礼部員外郎に抜擢され駅を乗じて慶元に至り江浙行省と可否を会議した。嘉は至ると父老に諮り不便を知り、これを罷めるよう請うた。
  • 折しも守令を選び遼東を綏靖しようとしていたので、嘉に広寧路総管兼諸鄂囉勧農防禦を授けた。属地で盗が起こり軍旅がたびたび興り供餉に虚日なく民は和糴・転輸に苦しみ吏胥は乗じて奸をなしていた。嘉は法を設けその戸口を計り甲乙を等級付けし、民は大いにこれを便とした。詔で義兵を団結させるとの命があり、嘉は民数千人を招集し坐作進退を教え、万・千・百夫をそれぞれ長で統率させ、号令は斉一で賞罰は明信であったため、東方諸郡の中で銭糧の富、甲兵の精は嘉を最とした。至正18年(1358年)寇が上京を陥すと、嘉はこれを聞き兵を率いて出て禦いだ。まもなく遼陽が陥落したので嘉は衆を率いて巡邏し城を去ること15里の所で、青号の隊伍百余人に遭遇し官軍と偽ったが、嘉はその詐りを疑い、まもなく果たして青衣を脱いで紅に変えた。嘉は馬を出して賊を射、兵を二隊に分けて挟撃し、賊数百人を生擒し死者は数知れなかった。
  • 嘉は賊の勢いが日々熾んになり孤城に援がないのを見て、同官を集めて攻守の計を議したが衆はみな失措した。嘉は「私の計は決まった」と言い、家財の衣服・財物をすべて出して義士を犒い勇敢を励まし、「我が祖宗が王室に勲があったからには、今忠を尽くすのはわが分内の事である、況んやこの地を身をもって守るからには生死をこれに委ねよう、その他は恤するに足りない」と言った。まもなく賊が至り城を囲み数十里に亘り、大呼する者があり「遼陽は我らが得た、なぜ出て降らないのか」と言うと、嘉は弓を挽いて呼んだ者を射てその左頬に命中させ馬から墜として死なせた。賊はやや退いたので嘉はそこで西門を開いてこれを追ったが、賊が大挙して至り力戦して死んだ。事が聞こえ崇化宣力効忠功臣・資善大夫・河南江北等処行省左丞・上護軍を追贈、太原郡公に封じ、諡は忠烈。