淮安への転戦まで
- 禇不華は字を君実、隰州石楼の人。沈黙で器局があった。泰定初め(1324年頃)中瑞司訳史に補せられ海道副千戸を授かり、嘉興路治中に転じ、続いて南台・西台監察御史を拝命した。河西道廉訪僉事に遷り、淮東に移りまもなく副使に陞った。汝潁で盗が発し勢いが甚だ張った時、不華は郡を巡り淮安に至り力を尽くして守禦の計を立て、賊が至ると多くを斬獲した。さらに知枢密院の婁章、判官の劉甲に韓信城を守らせ犄角として声援とし、さらに上章して総兵と諸将の逗撓の罪を弾劾した。朝廷はその功を録し廉訪使に陞り階は中奉大夫とした。
- 甲は智勇があり賊と戦えば必ず勝ち、賊はこれを憚って「劉鉄頭」と号し、不華は大いにこれに頼っていた。総兵者は不華に弾劾されたことを聞きさらに恚嫉し、甲に別に兵を将いて賊を撃たせる檄を発し不華を困らせようとした。甲が韓信城を去るとその城は陥落し、賊は塹を掘って連ね水寨を建てて我らを包囲した。まもなく天長の青軍が反し、布延特穆爾(ブヤンテムル)が統率していた黄軍もまた反し、賊はみなこれを従えて攻めてきた。不華は事が危ういと知り哈喇章(カラチャン)の営へ退いた。賊がやや退くと出て楊村橋に赴いたが、賊は突然至って廉訪副使の布達実哩(ブダシリ)を殺しその屍を啖った。不華は残兵で淮安に入った。
淮安籠城と殉節
- 時に城の東西南三面はみな賊で、ただ北門だけが沭陽に通じ赤鯉湖に阻まれていた。指揮使の魏岳・楊暹は沭陽に駐兵し淮安はその糧秣に頼っていたが、赤鯉湖は賊に拠られ沭陽への道もまた絶たれた。賊は孤城が取れると考え柵を南鎖橋に進めた。不華は元帥の張存義と共に大西門を出て、僉事の呼図克布哈(ホトクブハ)の兵と会して賊の柵を突き死力を尽くして戦い、賊は敗走し北へ20余里追撃した。城中の食は尽きかけていたので元帥の呉徳琇が糧1万斛を運んで河に入れたが結局賊に掠奪され、徳琇はかろうじて身一つで免れた。賊は青軍と共に包囲攻撃し日ごとに急を増したが、総兵者は下邳に屯し500里離れたところで兵を按じて出さず、使者19人を遣わして急を告げても皆聞き入れなかった。
- 城中では餓死者が道に倒れるとすぐに取って食い、草木・螺蛤・魚蛙・燕鳥、さらには靴皮・鞍韂・革箱・破れた弓の筋までみな食べ尽くし、その後は父子夫婦老幼が互いに食い合うようになった。屋を撤して薪とし、多くの人は路上に露宿し荊棘が生い茂った。力尽きて城は陥落し、不華はなお西門に拠って力戦したが傷を負い捕らえられ、賊に臠にされた。次子の班格は刃を冒して不華を護ろうとしたがやはり殺された。時に至正16年(1356年)10月乙丑であった。不華は淮安を守ること5年、幾百戦にも及び、その精忠大節は人々に張巡になぞらえられた。朝廷はこれを聞き翰林学士承旨・栄禄大夫・柱国を追贈、衛国公に追封、諡は忠粛、鈔200錠を賻してその家を恤した。