李齊(字公平)
- 李齊は字を公平、廣平の人。家は甚だ貧しく、江南に客居し辞章を工とした。元統元年(1333年)進士第一に及第し、河南淮西廉訪司事を歴任し高郵府知事に移った。政声があった。至正10年(1350年)盗が府の駅に突入し馬12頭を奪って去ったが、齊は自ら謝長らを追ってこれを殺した。11年(1351年)州人秦観保が兵仗を造り掠奪を図ろうとしたが、また捕らえて誅した。13年(1353年)泰州白駒塲の亭民張士誠が乱を起こし泰州を破ったので、淮南行省は齊を遣わして招降させようとしたが拘留され、しばらくして賊酋が自ら殺し合うようになりようやく齊を放って帰らせた。
- 泰州が平定されると賊徒はなお蜂起し、士誠は再び反乱を起こして参知政事の趙璉を殺し官庫と民財を掠め得勝湖に逃げ込み、まもなく興化県を陥した。行省は左丞の偰誓篤(セツセイトク)に宗王とともに高郵を鎮めさせ、齊を出して甓社湖を守らせた。夏5月乙未、賊数人が城に入り一斉に喚声を上げると省憲の官はみな逃げた。齊は急いで戻って城を救おうとしたが賊はすでに門を閉じ我らを拒んでいた。ついに興化と得勝湖はつながり舟艦が四方を塞ぎ寶応県にまで蔓延した。まもなく叛逆者を赦す詔があったが、詔は高郵に至って入れず、賊は「李知府を来させよ」と詐って命を受け行省は齊を強いて赴かせたところ、齊は獄に下された。齊はなお士誠に降伏の意はなく、ただ時間を稼いで繕飾を図っているだけだと弁論し続けた。官軍がこれを諜知して城を進攻すると、士誠は齊を呼んで跪かせようとしたが、齊は叱して「私の膝は鉄だ、どうして賊のために屈しようか」と言った。士誠は怒ってこれを扼したが、齊は立ったまま罵り続けた。士誠は齊を曵き倒しその膝を搥き砕いて殺した。論者は「大科の三魁、台哈布哈(タイハブハ)は海上で没し、李黼は九江で隕し、齊の死に至るまで、みな学んだところに背かなかった」と言った。