元史卷一百九十四 列傳第八十一 李黼

出自と諫言

  • 李黼は字を子威、潁の人。工部尚書李守中の子。守中は性が卞急で諸子への待遇は極めて厳しく、酒を飲むたびに半月も酔いが解けなかった。黼は百計を尽くして機嫌を取ったが父の心を得ることはできず、跪いて自らを訟え夜明けまで及ぶことも多く、いささかも厭怠の色を見せなかった。初め国子生に補せられ、泰定4年(1327年)明経で多士に魁として翰林修撰を授かった。翌年西嶽の祭祀に代わって赴いた際、省臣が「勅使はいつも我々の後だが、今は順を変えてもよいのでは」と言うと、黼は「王人は微賎であっても春秋では諸侯の上に序される、これは君を尊ぶためだ、どうして後にできようか」と答えた。省臣は答えられなかった。
  • 河南行省検校官に改まり礼部主事に遷り監察御史を拝命、まず「禴祠烝嘗は古今の大祭であるが、今太廟はただ2祭のみで、仏祠に日々供物を捧げ神御に礼を欠いている、経に拠って行うべきだ」と言った。成均は教化の基であり集賢に隷すべきでなく省臣に属し兼領させるべきこと、諸侯王の歳賜には定額があるが分封や代替わりの際に恩例を陳請しても世系の親疎について定まった書がなく先代に倣って玉牒を修正すべきことを述べたが、いずれも取り上げられなかった。江西行省郎中に転じ、入って国子監丞となり宣文閣監書博士兼経筵官に遷り、しばしば聖賢の心法をもって帝に進講した。まもなく中書が黼に河渠の巡視を命じると、黼は「蔡河は源を京西に発し、宋は輸送の便のため平地に堤を作った、今は河底が埋もれ地面より高くなり、秋の長雨が至れば横に決壊して災いとなる、故跡に拠って修浚すべきだ、いずれ東河に不測の障害が起こることがあれば江淮の運物はここを経て分道し京に達することができる、万世の利である」と工言したが、これも取り上げられなかった。祕書太監に陞り礼部侍郎を拝命、内外から上奏される封事を詳定するよう旨を奉じた。まもなく廷議で内外官を通調することになり、黼は江州路総管を授かった。

九江の防衛と戦死

  • 至正11年(1351年)夏5月、盗が河南で起こり北は徐・蔡に拠り南は蘄・黄を陥し数千里を焚掠、北岸で船を造り鋭意南攻しようとした。九江は下流に居り実に江東西の襟喉の地であり、黼は城壕を治め器械を修め丁壮を募って要害を分守させ、さらに攻守の策を江西行省に上奏し、江北に兵を屯して賊の衝を扼するよう請い、大江の険を賊に共有させないようにしようとしたが取り上げられなかった。黼は「私は死に場所を知らない」と嘆じ、独り牛を割いて士を饗し忠義を激励して士気を作興した。数日の間に紀綱はほぼ立った。
  • 12年(1352年)正月己未、賊は江を渡り武昌を陥し、威順王と省臣は相継いで逃げ、舳艫は江を蔽って下り江西は大いに震えた。賊は勝ちに乗じて瑞昌を破り、右丞の博囉特穆爾(ボロテムル)は江に軍していたがこれを聞き逃げた。黼は孤立していたが辞気はますます奮い立った。時に黄梅県主簿の伊遜特穆爾(イスンテムル)が出て賊を撃つことを願い出て、黼は大いに喜び天に酒を瀝いで誓約した。誓言が口を出るや否や賊の遊兵はすでに境に至った。黼は急いで諸郷落に檄を発し木石を険塞の地に集めさせ賊の帰路を遮らせた。倉卒で号がなかったので士卒の顔を墨で塗って統率し出戦、黼は自ら士卒に先立ち大呼して陣に陥り、伊遜特穆爾が続いて進み、賊は大敗した。北へ60里追撃し、郷丁は険に依り高きに乗じて木石を落とし、横たわる屍は道を蔽い、殺獲2万余人に及んだ。黼は還り左右に「賊は陸戦で不利なので必ず水道で我々に舟で迫るだろう、もし防禦を怠れば我らは皆殺しにされる」と言い、長木数千本を鉄の椎を先端に付けて岸沿いの水中に暗に植えて賊の舟を逆刺できるようにし、これを「七星椿」と名付けた。
  • 折しも西南の風が急に吹き、賊船数千艘が果たして帆を揚げ流れに乗って鼓譟しながら至ったが、舟は椿に遭って動けなくなり進退窮まった。黼は将士を率いて奮撃し、火矢を放って射させ、焼死・溺死する者数知れず、残りの舟は散り走った。行省は黼の功を上奏し江西行省参政・行江州南康等路軍民都総管・便宜行事を拝命した。まもなく賊の勢いはさらに熾んになり、西は荊湖から東は淮甸に及び、守臣はしばしば城を棄てて逃げたが、黼は孤城を守り疲弊した軍を率い、斬獲と負傷者の手当てに戦わない日はなかった。中外の援軍は絶えた。
  • 2月甲申、賊は城に迫り分省平章政事の図沁布哈(トチンブハ)は北門から逃げた。黼は兵を率いて城壁に登り戦具を布いたが、賊はすでに甘棠湖に至り西門を焼こうとした。弩箭で射させると賊は躊躇して進めず、東門に転じて攻めた。黼は東門を救おうとしたが賊はすでに入城しており巷戦となった。力及ばないと知ると剣を揮い賊に叱して「私を殺せ、百姓を殺すな」と言った。賊は巷の背後から来て黼を刺し馬から墜とし、黼は従子の秉昭と共に賊を罵りながら死んだ。郡民は黼の死を聞き哭声は天を震わせ、相い率いて棺を具え東門外に葬った。黼が死んで1ヶ月余り経って参政の命がようやく下った。享年55。黼の兄冕は潁に居りやはり賊に殺された。秉昭は冕の末子である。
  • 事が聞こえ、黼に攄忠秉義効節功臣・資徳大夫・淮西江北等処行中書省左丞・上護軍を追贈、隴西郡公に追封、諡は忠文。詔で江州に廟を立てさせ額を「崇烈」と賜り、子の秉方に集賢待制を授けた。