地方官としての治績
- 劉天孚は字を裕民、大名の人。中書訳史より東平総管府判官となり、都漕運司判官に改まり冠州知事、さらに許州知事となり、至る所で治績があった。屯田を検核した際、臨頴の鄧艾口の民の稲田300頃があったが、これを害しようとする者が右屯と指し中書に陳べて再建を請うたので、中書は天孚に実地調査を命じ、天孚はその不当を弁じて何度も上申し、事はやんだ。
- 襄城は葉県と接壌し、その南は湛河であった。襄城の民は滄塩を食し葉県の民は解塩を食していたので河南岸に石を刻んで境界とした。葉県令に貪汚の者があり密かに石を北に2里移し、その民が私塩を食していると誣告し百余家を捕らえて治罪した。両県は争論し葉県は陝西の漕運の勢いを頼んで襄城を凌いだが、中書は官を遣わして実情を調べさせ、天孚は元の境界と石の移された場所を考証し、葉県令は罪を得て去った。
- ある年大旱、天孚が祈ると雨が降った。野に蝗が発生し天孚が民に捕らえさせると、まもなく群烏が来て蝗を啄み尽くした。翌年麦が熟する頃、青虫がスズメガのように麦を食い人はどうにもできなかったが、忽然と大花蟲が生じてこれを尽く食い尽くし、許州の人は碑を立てて頌えた。万億宝源庫同提挙に転じ、江西行省左右司郎中に遷ったが母の老いを理由に赴任せず、まもなく母の喪に服した。喪が明けて河中府知事に起用された。
阿斯罕の乱と殉節
- 着任してわずか2ヶ月、陝西行省丞相の阿斯罕(アシハン)が乱を起こし兵を挙げて河中に至った。事は不意に起こり、達嚕噶齊の多爾濟(ドルジ)は晋寧に趨って乱を告げた。天孚は昼夜戦守の備えを整え、丁壮を選んで要害を分守させ、河東県達嚕噶齊の托音都(トインドゥ)に大慶関の津口を守らせて船舫を尽く東岸に集めさせ、判官の孫拝特穆爾(スンバイテムル)に汾陰を守らせ、推官の程謙に禹門を守らせ、河東県尹の王文義に風陵などの渡を守らせた。阿斯罕の軍は河西岸に柵を列ね、来て舟を求めた。
- 天孚は拒みきれないと判断し、8度も晋寧に人を遣わして援兵を乞うたが返答はなかった。7日を経て阿斯罕は河上に筏を結び、火を放って城を屠ろうとした。同知の特爾格(テルゲ)と河東廉訪副使の明安岱爾(ミンガンダイル)は事の急を見て城中の人々が窮迫するのを憂い、阿斯罕の軍に赴いたが阿斯罕はこれを囚え、船を集めて兵を渡した。兵が城に入ると、阿斯罕は河渡を扼して舟楫を鎖したことを天孚の罪として脅し自分に付かせようとし、府庁に座り諸軍に号令していた。天孚は刀を佩いて真っ直ぐ進んだが衆に遮られ進退できなかった。幕僚の王従善らに「私の家はもともと微賤だが朝命を蒙りここに至った、今不幸にも大変に遭った、どうしてこれに従い上の恩に背けようか、阿斯罕の手に辱められるより、いっそ河に身を投げて死のう」と言い、衣を払って出た。
- 時に天は寒く河の氷はまさに堅かった。天孚は佩刀を抜いて氷を斫り開き、北を望んで国語で祝うように何か言い、再拝すると衣冠を岸辺で脱ぎ水に身を投げた。阿斯罕は大いに怒りその家を籍没し、郡人はみな哀しみ痛んだ。事が平定すると詔で弟の天恵に駅を給し柩を大名に持ち帰り葬らせ、推誠秉節功臣・中奉大夫・河東山西道宣慰使護軍・彭城郡侯を追贈、諡は忠毅。