元史卷一百九十三 列傳第八十 耶律特黙

帰順と天祐の武功

  • 耶律特黙は契丹の人。父の酬格は遼に仕え都統となったが、遼が滅んだ際節を屈せず夫婦ともに死んだ。金主はその忠義を憐れみ特黙を都統に任じた。甲戌年(1214年)国兵が至ると金は汴に遷り、特黙と子の天祐は3万の衆を率いて内附し、帥府監軍・天祐招討使を授かった。元帥史天倪に従い趙州の平棘・欒城・元氏・柏郷・賛皇・臨城などの県を略し、その民5千余人を戸籍に付けて吏を置き安撫した。辛巳年(1221年)太師穆呼哩が諸道の兵馬を統領し制を承けて特黙に洺州等路征行元帥を加え、天祐と共に邢・洺・磁・相・懐・孟を略し、花馬劉元帥を招いて功があった。穆呼哩はまた制を承けて特黙に真定路安撫使・洺州元帥を授け、兵を進めて澤・潞に臨み、その民6千余戸を降し、功により河北西路安撫使兼澤潞元帥府事に遷った。壬午年(1222年)致仕して真定に退居した。
  • 天祐が職を継ぎ、天倪に従い益都の諸城を攻略し滄・棣を略して7千戸を得、滄棣州達嚕噶齊を兼ね金符を帯びた。時に金の鹽山衛が鹽場を鎮めまだ下っていなかったが、天祐は計をもってこれを克服し、毎年塩4千席を運んで軍儲を助けた。甲申年(1224年)大名を攻めてこれを抜いた。乙酉年(1225年)金の降将武仙が真定に拠って反し、守将史天倪を殺した。特黙父子は夜に城を越えて出て事を知らせようとしたが、折しも天倪の弟天沢が北京から戻り満城で彼らに出会い、蒙古の諸軍を合わせ南へ賊と戦い武仙を走らせ真定を回復した。朝廷は天沢に兄の爵を継がせ天祐を趙州に鎮めさせた。

天祐の忠孝と一族の殉節

  • 翌年、仙は再び真定を犯し、天沢は密かに稾城へ兵を出したが、特黙とその妻舒穆嚕氏(シュムル氏)および真定にいた家属はみな陥落した。仙は僕の劉攬児に書を持たせ天祐を誘い「汝が趙州の官吏を誅して降れば汝の父母を生かし元帥に任じよう、さもなければみな煮殺す」と言わせた。特黙は密かに攬児に「仙賊は狡猾なこと汝の知る通りだ、私のために機略にはまり忠節を欠くようなことをしてはならぬ、忠孝は両全し難いが、汝がよく国家の大計を守り抜くならば、私は刀鋸を蜜のように甘んじて受けよう」と天祐に言わせた。天祐は慟哭してこの命を承け、稾城へ馳せて賊の書を天沢に示した。天沢は「王陵の事は史冊に照り輝いている、汝がよく父の命に従い忠誠を国に捧げれば、功は王陵に劣らない」と言った。天祐はそこで趙壁に趨り衆を率いて死をも顧みず戦った。仙は怒り特黙の家族18人を皆殺しにした。欒城・元氏・高邑・柏郷で戦い仙の兵はしばしば挫かれたが、監軍の張林が密かに仙の党と結び関門を開いて賊を入れたため、天祐は倉皇として巷戦し自ら数十人を斬ったが身に10余の傷を負いつつ関門を斬り出て散卒を収め城を包囲した。丁亥年(1227年)賊は城を棄てて逃げ、稾城まで追い天沢の軍と挟撃して張林を殺した。天祐は奉国上将軍・洺州征行元帥兼趙州安撫使を加えられたが、傷と疲労により致仕し趙州に住み没した。孫の世枻は朝列大夫・江西榷茶都転運使となった。