元史卷一百九十三 列傳第八十 石珪

石珪

  • 石珪は泰安新泰の人。宋の徂徠先生石守道の子孫で、代々読書と農耕を業としていた。体格は魁偉、膂力は人に勝り倜儻不羈であった。金の貞祐年間(1213-1217年)南渡の後、兵戈が四方に起こり、珪は少壮の者を率いて険を頼りに自衛し、滕陽の陳敬宗と共に山東で兵を集め、亀蒙山で張都統・李覇王の軍を破った。宋の将鄭元龍が兵で迎え撃つと珪は亳陽でこれを破り、勝ちに乗じて兵を引いて盱眙に入った。折しも宋の賈渉が漣水忠義軍統轄の季先を誘殺したため人心は不安になり、衆は珪を迎えて帥とし太尉と呼んだ。
  • 戊寅年(1218年)太祖が格根布哈(ゲゲンブハ)を宋との議和に遣わした。己卯年(1219年)珪は麾下の劉順を塔実干城(タシガン)に直接遣わし入朝させた。太祖は労をねぎらい、珪に勅して「もし宋との和議が成らなければ、私と汝は永く一家となろう、必ず汝を栄えさせよう」と言い、順が戻ってこれを珪に告げると珪は心から感服し、日夜降ることを思った。庚辰年(1220年)宋は果たして盟約を破ったので、珪は妻の孔氏と子の金山を棄て、剣を仗して淮を渡った。宋将がこれを追い「太尉よ帰って妻子を全うせよ」と言ったが珪は顧みず、宋将は珪の妻子を淮に沈めた。珪は劉順・李温とともに因布爾罕(インブルカン)を通じて穆呼哩に帰順した。
  • 穆呼哩はこれを喜び「もし東平・南京を得たら汝にその統治を授けよう」と言った。辛巳年(1221年)穆呼哩は制を承けて珪に光禄大夫・済兖単三州兵馬都総管・山東路行元帥を授け金虎符を帯びさせ便宜従事させた。後に金が東平を棄てると、珪は厳実と分かれて済・兖・沂・滕・単の諸州を収拾した。癸未年(1223年)太祖は詔して「石珪は妻子を棄て兵を率いて帰順し、戦って攻め取った」として金紫光禄大夫・東平兵馬都総管・山東諸路都元帥を加授し、その他はもとの通りとした。
  • 秋7月、珪は兵を率いて曹州を破り、金将の鄭従宜と数昼夜連戦したが糧は尽き援軍も至らず、それでも軍に叛意はなかった。珪は陣に臨み馬が仆れて捕らえられ、汴に幽閉された。金主はその人となりを壮とし名爵で誘い揖礼を求めようとしたが、珪は憤然として「わが身は大朝に仕え官は光禄に至った、再び他国から封を受けられようか。私を一朝解放すればお前を縛って献上してやろう」と言った。金主は大いに怒り市で蒸し殺した。珪は平然と死に臨み顔色を変えなかった。その麾下は兖州に社を立てて祀った。