元史卷一百九十三 列傳第八十 李伯温

兄弟の殉節

  • 李伯温は守賢の従兄。長兄の惟則は懐遠大将軍・平陽征行万戸、次兄の伯通は太祖甲戌年(1214年)錦州の張致が反乱を起こした際、国王穆呼哩(ムカリ)の命でこれを撃ち、城北の大戦で戦死した。伯温は平陽元帥府事を代行し青龍堡を鎮め東征を専任していたが、平陽がすでに陥落し弟の守忠が捕らえられたことを知り、驍勇を選んで長く拒守した。
  • 金軍が総力で攻めてきて守卒は夜に多く逃亡し、李成が水門を開いて敵を導き入れた。伯温は堞楼に登り左右に「われら兄弟は節を仗して方面を任されたが、今不幸にも戦に敗れた、死をもって国に報いるべきだ。弟はすでに捕らえられた、私はこれ以上辱めを受けるわけにはいかない、汝らは自ら逃げて生きよ」と言った。士卒はみな躊躇して去るに忍びなかった。伯温は剣を抜いて家族を殺し井戸に投げ込むと、刃を柱に立てかけ心臓を突いて死んだ。金人が楼に登り、伯温が柱を抱いたまま生きているかのような姿を見て嗟嘆しない者はなかった。
  • 弟の守正は幼い頃から穆呼哩のもとに人質となっていたが、後に平陽守となり多くの俘虜を助命し、功により銀青栄禄大夫・河東南路兵馬都元帥を授かった。庚寅年(1230年)、上党・晋陽の連合軍が汾州を攻め陥落寸前になったところ、守正は義によって援軍に赴いたが衆寡敵せず、老弱百人を別に遣わし薪を曳かせ塵を揚げさせ旗幟を多く張らせたので敵は懼れて退いた。汾の人々は牛酒を持って迎え犒い、道は絶えることなく、泣いて「幸いに公がこの州を全うしてくれた、恩徳は甚だ大きい、願わくばこの州を捧げて従いたい」と謝した。
  • 関中の兵が吉州に屯していた際、酋領の楊鉄槍が数千人を率いて反したが守正は出兵してこれを捕らえた。軒成が隰州に拠ったので守正はこれを攻めたが矢に当たり足を負傷し、帰還後に傷が重くなった。折しも金の完顔哈達が平陽を攻めたので守正は傷を包んで戦い戦死した。大帥はその兄の守忠に代わらせた。
  • 守忠は官が銀青栄禄大夫・河東南路兵馬都元帥兼知平陽府事に至った。壬午年(1222年)冬、平陽公胡景山が青龍堡をもって降った。かつて益都攻めに従軍し北に還った際、軍将の彭智孫が隙に乗じて義州に拠って反したが、守忠はこれを聞くと長駆して城下に至り力戦してこれを回復した。丁亥年(1227年)夏4月、金の赫舎哩真(ヘシェリジェン)が平陽行営招討使権国王安扎爾(アンザル)を洪洞で襲撃したので、守忠は援軍として赴き高梁で会戦したが軍は潰えて入城した。平陽副帥の瓜爾佳常徳(グワルギャチャンドゥ)が密かに東門を開いて金兵を入れ、城は陥落した。金人は守忠を捕らえて汴に至り、高位をもって誘い降伏させようとしたが、守忠はこれを罵り言葉が悪かったため金人は怒り、守忠を鉄籠に入れ火で炙って殺した。