総論
- 古来、国家に寛厚な君主があってこそ、政をなす者は愛民の道を尽くすことができ、良吏が現れる。班固は「漢の興るや民と休息し、万事簡易、禁網は疎闊、寛厚清浄をもって天下に先んじた。ゆえに文帝・景帝以後、循吏が輩出した」と言い、それは当時の治体を識った言である。元の初め、風気は質実で漢初と似ており、世祖は諸道に勧農使を立て、五事をもって守令を評価し勧農をその職掌に繋げたので、当時良吏が続々と現れたのも寛厚の効であった。しかし中世以後、循良の政は史官の記録から漏れがちである。今、事蹟の取るべき者に拠って良吏伝を作る。
出自と初期の治績
- 譚澄は字を彦清、興徳懐来の人。父の資栄は金末に交城令となった。国朝の軍が河朔を平定すると県ごと帰順し、金符を賜り元帥左都監となり、なお交城令を兼ねた。ほどなく虎符を賜り元帥府事を行い、汴京攻めに従軍して功をあげたが、40歳で病のため弟の資用に職を譲った。資用の没後、澄がその職を継いだ。
- 澄は幼くして聡敏で、19歳で交城令となった。文谷水を分けて交城の田を灌漑していたが、文陽郭の帥がその利を独占して堰を築いたため訴訟が何年も続き決着しなかった。澄は理をもって裁き水路を定め、民に利を均しく分けさせた。吏の弱みを握って奸をなす豪民があれば、その主謀者を調べて法で処断した。
戸籍・水利の施策と憲宗朝の危機
- 乙未年(1235年)の民戸調査で、有司の多くは浮客を戸籍に組み入れ、徴賦から逃れる者はほとんどいなくなった。官が貸付をして利息を積み重ね数倍になり民は返済できなかった。澄は入朝し中書の耶律楚材を通じてその害を訴え、太宗は憐れんでその未払い分を免除した。私的な負債についても利息が多くとも元本の倍で打ち切りとし、逃亡していた民が戻れば3年間租税を免除する詔が下り、公私ともに便宜となった。
- 壬子年(1252年)、再び民の戸籍調査があり、澄は交城の土着でない者の賦役をすべて削り、時に応じて集められるようにした。甲寅年(1254年)、世祖が大理から帰還する際、澄は拝謁して藩府に留められ、遣使には必ず澄を伴わせ、弟の山阜に交城令を代行させた。
- 世祖が皇弟として京兆に開府し天下の兵を統べていた丁巳年(1257年)、離間する者があり憲宗が疑って兵権を解き、阿勒達爾(アルダル)を京兆に遣わし官吏を大いに集めて計局を置き、142条をもって考核させ罪に問われた者は甚だ多かった。世祖はたびたび左丞のクク(庫庫)と澄を派遣してその間を取り持たせ欠を繕わせ、世祖が自ら入朝して事情が明らかになりようやく解けた。
中統・至元年間の治績と羅羅斯撫綏
- 中統元年(1260年)世祖即位、懐孟路総管に抜擢され金符を賜り、のち金虎符に換えた。旱魃の年、民に唐温渠を掘らせ沁水を引いて田を灌漑させ、民は飢えず種植を教えた。至元2年(1265年)河南路総管に遷り、平灤路総管に改め、7年(1270年)入朝して司農少卿となり、まもなく出て京兆総管となった。1年経て陝西四川道提刑按察使に改まり、「不孝に三あり後無きを大となす」として、民が40歳で子が無ければ妾を娶り宗祀に備えることを聴許すべしと建言し、朝廷はこれに従い令として定めた。
- 四川僉省の厳忠範が成都を守っていたが宋の将昝万寿に敗れ子城に退いて守った。世祖は澄に代わらせ、至ると死体を葬り焼けた家屋を修復し飢えた貧民を賑わせ、逃亡した民を集め民心はやや安んじた。西南夷の羅羅斯が内附すると、帝は新しく帰属した国を安撫するには文武全才の者を選ぶべしとし、澄を副都元帥・同知宣慰使司事とした。任地に至る前に病で卒した。享年58。
- 世祖はかつて太保の劉秉忠と当代の牧守を論じたことがあり、秉忠は「邢の張耕、懐の譚澄のような者がいれば、治まらないことを憂う必要があろうか」と言った。
- 游顕が大名を宣撫していた時、諸路総管のために虎符・宣麻を求めたことがあり、澄が中書に至って「皇上は譚澄を知らないのか」と辞退したので、顕の推挙は中書によって取り消された。その気骨はこのようであった。子の克修は湖北・河南・陝西の三道提刑按察使を歴任した。