元史卷一百八十九 列傳第七十六 儒學一

儒学伝の趣旨

前代の史書は儒学の士を、経学に専心する「儒林」と文章に長ける「文苑」の二つに分けてきたが、儒の学問は本来一つであり、六経は道の在り処であって文はそれを載せるものに過ぎない。経は文がなければ趣旨を明らかにできず、文も六芸に基づかなければ真の文とは言えない。元が興って百年、朝廷の内外から山林の布衣に至るまで、経に通じ文に優れた人材が多く輩出したので、これを分けず一括して「儒学伝」とする。

趙復――北方に朱子学を伝える

趙復は字を仁甫といい、徳安の人。太宗乙未の歳(1235年)太子庫春が宋を伐った際、徳安は激しく抗戦し数十万の民が捕らわれ殺された。軍中で儒道釈医卜の士を求めていた姚樞が、俘虜の中に趙復を見出した。復は一族皆殺されたことを悲観し北へ帰ることを拒み自裁しようとしたが、樞に諭され従うことにした。復は程朱の諸経伝注を記憶していたものを悉く書き記し樞に授けた。復が燕に至ると学子百余人が従った。世祖は潜邸にあった頃、復を召見し「宋を取りたいが、卿は導いてくれるか」と問うたところ、復は「宋は私の父母の国、他人を引いて父母を伐たせる者はいない」と答え、世祖はこれを悦び強いて仕えさせなかった。楊惟中と樞は太極書院を建て周子祠を立て、二程・張・楊・游・朱の六君子を配祀し、選んだ遺書八千余巻を復に講授させた。復は『伝道図』『伊洛発明』『師友図』(朱子門人五十三人を記す)『希賢録』(伊尹・顔淵の言行を採る)を著した。北方に程朱の学が知られるようになったのは復から始まる。江漢の畔に家を構え、自ら江漢先生と号した。

張㺵(達善)――朱子学の南北への伝播

張㺵は字を達善といい、先祖は蜀の導江の人。蜀滅亡後江左に寓居した。金華の王栢が朱熹三伝の学を台州上蔡書院で講じており、㺵はこれに学び、南北の士でこれに及ぶ者は少なかった。至元中、行台中丞の呉曼慶が江寧学宮に招き子弟に授業させ、大臣の推薦で孔顔孟三氏教授に特任された。子はなく、著書に経説と文集がある。呉澄はこの書に序を寄せ「新安朱氏の遺志を継ぐ者」と評した。至正中、真州の守臣が㺵・郝経・呉澄を祀る「三賢祠」を儀真に建てた。

金履祥――経済の策と歴史編纂

金履祥は字を吉父といい、婺の蘭渓の人。先祖は劉氏であったが呉越の銭武粛王の諱を避けて金氏に改めた。曽祖景文は宋建炎紹興間に孝行で知られた。履祥は幼くして聡明で、天文地形礼楽田乗兵謀陰陽律暦を究め、壮年で濂洛の学を志し、王栢に師事した(王栢は何基に、何基は黄榦に、黄榦は朱熹に学んだ系譜)。宋末、襄樊の戦が急を告げても宋が救援しないのを見て、海路から燕薊を直撃する牽制策を献じたが用いられず、後に朱瑄・張清らの海運の実施がこの案と符合していたことが知られた。徳祐初(1275年)迪功郎史館編校を辞退し、宋滅亡後は金華山中に屏居した。故人の子が奴隷に落とされたのを知り資財を投じて贖った。何基・王栢の喪には師弟の礼をもって服喪した。司馬光『資治通鑑』の外紀が経に基づかないと批判し、尚書を主とし諸子・史書を採って唐堯以前を編年した『通鑑前編』二十巻を著し門人許謙に授けた。ほかに『大学章句疏義』『論語孟子集註考証』『書表注』などがある。天暦初(1328年頃)亷訪使鄭允中がその書を朝廷に上表した。学者は履祥を仁山先生と称し、元統初(1333年)呉師道が郷学に祀り、至正中に諡文安を賜った。

許謙――四書と暦学の集大成

許謙は字を益之といい、先祖は京兆の人で、九世祖延寿は宋の刑部尚書、五世を経て金華に住んだ。父の觥は淳祐七年(1247年)進士だが早世し、謙は幼くして孤児となり世母陶氏に孝経論語を授けられた。長じて金履祥に師事し、その学を尽く受け継いだ。『四書章句集注叢説』二十巻、詩集伝の『名物鈔』八巻、書集伝の『叢説』六巻を著し、史学では太皥氏から宋元祐元年の司馬光の死までを編年する『治忽幾微』を著した。延祐初(1314年)東陽八華山に居して講学、門人は千余人に及んだが科挙の文は教えなかった。孝友に篤く、古に膠らず俗に流されず、四十年間里閭を出なかった。至元三年(1337年)六十八歳で没し、白雲先生と号され、朝廷は諡文懿を賜った。何基・王栢・金履祥・謙は朱熹の正統を継ぐ者とされ、四賢書院が建てられた。同郡の朱震亨(字彦修)は謙の高弟である。

陳櫟――朱子学の擁護

陳櫟は字を寿翁といい、徽州休寧の人。三歳で祖母から孝経論語を口授され、五歳で小学に入り、十五歳で郷人が皆師と仰いだ。宋滅亡で科挙が廃れると聖学に発憤し、『四書発明』『書伝纂疏』『礼記集義』など数十万言を著し、朱熹没後に乱れた諸家の説を正した。延祐初(1314年)科挙復活時は受験を望まなかったが有司に強いられ郷闈に中り、以後礼部試には赴かず家で数十年教授した。呉澄は「櫟は朱氏の学に功あり」と称え、江東から集まった弟子を櫟のもとへ帰した。学者は定宇先生と称し、元統二年(1334年)八十三歳で没した。掲徯斯が墓誌を撰し、呉澄と並び称された。

胡一桂・胡炳文――易学の家

胡一桂は字を庭芳といい、徽州婺源の人。父の方平から易学を受け継いだ(董夢程から黄榦、黄榦から朱熹への学統)。宋景定甲子(1264年)十八歳で郷薦に領せられたが礼部試に落第し、講学に専念して雙湖先生と号し、『周易本義附録纂疏』『易学啓蒙翼伝』『朱子詩伝附録纂疏』『十七史纂』を著した。同郡の胡炳文(字仲虎)も易で名家をなし『易本義通釈』を著し、四書の朱熹学に深く通じ、饒魯の異説を正す『四書通』を著して雲峰先生と称された。

黄澤――経学疑義の解明

黄澤は字を楚望といい、先祖は長安の人で唐末に資州に移った。十一世祖延節は大理評事、五世祖拂は進士、父儀可は挙に及第せず九江に寓居した。澤は生来異質で苦思を好み、経は古注疏を先とすべきと考え、易・春秋の解と『二礼祭祀述略』を著した。大徳中(1300年頃)江西行省が江州景星書院山長に、後に洪の東湖書院にも招いた。夢に孔子から六経を授かる体験を経て旧説の誤りを悟り、『思古吟』十章を作った。晩年は郷里で門を閉ざし著述に専念し、六経の疑義千余条を掲げ、易では『十翼挙要』『忘象弁』『象略弁』『同論』、春秋では『三伝義例考』『筆削本旨』『元年春王正月弁』『諸侯娶女立子通考』などを著し、礼学では鄭玄・王肅らの説を批判する『礼経復古正言』、さらに『六経補注』『翼経罪言』を著した。呉澄は澤を近代の経学者の第一と評した。至正六年(1346年)八十七歳で没し、門人の趙汸(新安の人)がその春秋学を最も多く継承した。

蕭㪺――関中の醇儒

蕭㪺は字を惟斗といい、先祖は北海の人、父が秦中に仕えたため奉元人となった。㪺は至孝で、南山で三十年読書に専念し、天文地理律暦筭数まで広く研究した。世祖の分藩の際、楊恭懿・韓擇と共に秦邸に侍すよう辟されたが病を理由に辞し、陝西儒学提挙にも赴かなかった。大徳十一年(1307年)太子右諭徳に拝され病を押して入覲したが辞任を願い出た。集賢学士国子祭酒として右諭徳を兼ねたがまもなく固辞し、七十八歳で没した。諡は貞敏。教育は小学より始めることを重視し、洙泗の学を本とし濂洛考亭を拠り所とし、一代の醇儒と称された。著書に『三礼説』『小学標題駁論』『九州志』『勤斎文集』がある。

同郡の韓擇(字従善)も奉元の人で、学者には必ず小学から学ばせ、礼学に深く通じた。世祖に召されたが病で赴けず没し、門人百余人が緦麻の喪服で悼んだ。

侯均(字伯仁)も奉元の人で、両親を早く亡くし継母と暮らしながら四十年学問を積み、太常博士に起用されたが上疏が時の宰相の意に忤れて帰郷した。

同恕・第五居仁――奉元の魯斎書院

同恕は字を寛甫といい、先祖は太原の人、五世祖が秦中に移り奉元人となった。一族二百口が共に暮らし争いがない家風であった。仁宗践阼の際、国子司業儒林郎に拝されたが三度召されても仕えなかった。陝西行台侍御史趙世延の請願により奉元に魯斎書院が置かれ、中書の命で恕が教事を領し、学ぶ者は千人に及んだ。延祐の科挙で二度郷試を主宰し、六年(1319年)太子左賛善として東宮に召された。致和元年(1328年)集賢侍読学士に拝されたが老疾を理由に辞した。学問は程朱から孔孟に遡り、人と交わって内には規律を持ち、家に蓄えはなくとも書は数万巻を蔵し、居所を榘菴と称した。至順二年(1331年)七十八歳で没し、翰林直学士を贈られ京兆郡侯に封じられ、諡は文貞。『榘菴集』二十巻を著した。

第五居仁(字士安)は初め蕭㪺に、後に恕に学び、経史に通じ子弟を率いて自ら農業に励みながら多くの門人を育てた。没後、私諡「静安先生」を贈られた。

安熙――簡靖な下学の教え

安熙は字を敬仲といい、眞定藁城の人。祖の滔、父の松ともに学行で郷里に知られた。熙は保定の劉因の学を慕ったが、訪ねる前に劉因は没しており、その門人烏叔備から学統を受け継いだ。劉因は朱熹の学を尊信して人を教えたが気風は高明で進取的、熙は簡靖和易で下学の実践に努め、平実に朱熹の学を継承した。太平の世に生まれ仕官を望まず家居して数十年教授し、没後郷人が藁城西筦鎮に祠を建てた。門人蘇天爵が遺文を輯め、虞集が序を寄せ「もし劉氏がこれを見れば、その学問は当代にさらに大きく広まっただろう」と評した。