元史卷一百八十七 列傳第七十四 周伯琦

出自と文才

周伯琦は字を伯温といい、饒州の人。父の應極は仁宗が皇太子の頃に召見され、翰林待制、皇太子説書を務めた。伯琦は幼くして京師に游学し国学の上舎生となり、蔭授で南海県主簿となった後、翰林修撰に三転した。至正元年(1341年)奎章閣を宣文閣に改めた際、宣文閣授経郎として戚里大臣の子弟に進講し、篆書に優れて宣文閣の宝璽を篆し、王羲之『蘭亭序』・智永『千文』を摹刻するなど帝の眷遇が篤かった。

監察御史と地方官

八年(1348年)翰林待制に召され后妃功臣列伝の編纂に参与、十二年(1352年)南士が省台に居ることが認められると兵部侍郎に除され貢師泰と共に監察御史に擢用された。御史大夫額森特穆爾の南討失律を弾劾した陝西行台監察御史の劉希曽らを、伯琦は越権と論じて左遷させ、公論の支持を得られなかった。十三年(1353年)崇文太監兼経筵官、十四年(1354年)江夏粛政亷訪使として再起したが、長槍賊の索諾木巴勒が寧国を陥れた際、倉皇として出て遁走し杭州に至った。兵部尚書に任じられる前に浙西粛政亷訪使に改められ、寧国失陥の罪を弾劾された。

張士誠治下と晩年

十七年(1357年)江浙行省丞相達実特穆爾の承制で参知政事を仮任され平江の張士誠を招諭、士誠降伏後に江南行台監察御史が伯琦の罪を弁明し、同知太常礼儀院事に任じられたが士誠が留めて赴任できず、資政大夫江浙行省左丞を拝命したまま平江に十余年留められた。士誠滅亡後にようやく帰り、鄱陽で没した。容儀温雅で玉のごとく、乱世にあってもよく身を保ち、博学で文章に優れ、篆隷真草の書に当代随一と称された。『六書正譌』『説文字原』を著し、詩文稿若干巻がある。