元史卷一百八十六 列傳第七十三 歸𤾉

出自と地方官

歸𤾉は字を彦温といい、汴梁の人。生まれる際、母楊氏が朝日が東山に昇り雲がこれを掩う夢を見たことに因んで名付けられた。師なくして学び至順元年(1330年)進士に及第、同知潁州事に任じられ、権勢を恃む山東塩司の奏差を年少ながら躊躇なく獄に下した。大都路儒学提挙に転じる前、至元五年(1339年)十一月、杞県の范孟が詔使を詐って河南省の平章伊嚕特穆爾・左丞齊喇・亷訪使諤勒哲布哈・総管色埒黙らを殺す事件が起き、暘は北の黄河口の守備を命じられたが力を尽くして従わず投獄された。賊が敗れると獄を免れ、賊に同調した呉炳と対比して「歸暘出角、呉炳無光」と称された。

中央での諫言

国子博士、監察御史を経て、臺臣に河南で賊に抗した人物として称賛された。親の喪に服したのち至正五年(1345年)僉河南亷訪司事となり、趙王府官属の貪暴を法で正し、宣寧県・沁州の冤獄を明らかにした。淮東亷訪司僉事、宣文閣監書博士兼経筵訳文官を経て七年(1347年)右司都事となり、順江の酋長楽孫の内附に応じて宣撫司・郡県を設ける議に「鞭が長くとも馬の腹には届かぬ」と反対し、左丞呂思誠と激しく議論したが、丞相太平は結局暘の策(宣撫を授け貢賦を求めず金帛を賜って帰す)に従った。京師の乞丐に丞相が皮服を分け与えようとした際も、寒饑者への賑済に切り替えるべきと諫めて丞相を悟らせた。

地方統治への提言

雲南の斯可の叛乱討伐で無功の責任を一人に負わせようとする議に反対し、湖広行省左丞実保の子実迪の奔喪を許すべきと諫めた。広海の猺賊討伐で将を交代させる案にも反対したが聴かれず果たして無功に終わった。八年(1348年)左司員外郎に陞り河間の余塩を減らして民を裕にする案を実現させ、楮幣五百万錠を銀に易えて内蔵を実にする議には富商のみが利すると反対した。参議枢密院事として方国珍討伐失敗の将帥を弁護し、国珍の偽りの降伏を見抜いて警告したが果たして後に叛いた。御史台都事、枢密院判官を経て九年(1349年)河南亷訪使になる前に礼部尚書に改められ、皇太子の学問所である端本堂で賛善に召され、翰林直学士同修国史を兼ねた。師傅と皇太子の座位の礼制について自説を貫き従わせた。

晩年

病と称して官を辞し、賜物も受けなかった。トクトが甘州から戻り入相する際、中書参議の趙期頤・員外郎の李稷が私邸を訪れ入相の詔の起草を頼んだが、「丞相の入相の詔は詞臣が視草すべき」と固辞した。十年(1350年)四川行省参知政事、十二年(1352年)・十五年(1355年)と二度刑部尚書に任じられたが、いずれも病を理由に辞した。十七年(1357年)集賢学士兼国子祭酒に任じられ、使者に急かされ病を押して京師に至ったが起き上がれず、振紀綱・選将材・審形勢の三策を上奏したが老生常談として用いられなかった。十一月、集賢学士資徳大夫として致仕、半俸を辞退した。翌年帰郷を願い出て弘州に寓し、蔚州・宣徳・大同・関陝を転々とし小寧に至り、解の夏県に住んだ。皇太子が冀寧に出た際に強いて起用されたが数か月で夏県に戻り、二十七年(1367年)六十三歳で没した。