元史卷一百八十六 列傳第七十三 張楨

出自と初任

張楨は字を約中といい、汴の人。幼くして刻苦して読書し、元統二年(1334年)進士に及第、彰徳路録事に任じられ河南行省掾に辟された。楨は祁氏を娶ったが、富家育ちの祁氏は驕縦で楨を貧しいとして礼を尽くさず、結婚一月余りで離縁した。祁氏の兄が誣告して訴え、上司がこれを取り上げようとしたが、楨は病と称して出仕せず対応、案件が滞積した。平章政事の伊嚕特穆爾は「張楨は剛介の士だ、汝らが議すべき相手ではない」と怒り、郎中の呼察図が謝りに来て事は収まった。范孟が謀反を起こし伊嚕特穆爾らを矯殺して城中が大いに乱れた際、楨は夜に城を縋り降りて難を逃れた。

地方官として

高郵県尹に転じ私謁を許さず、豪強の張提領の罪状を糾して処罰し、民の喝采を得た。守城千戸の格爾の妻崔氏が小妾に虐死させられた事件では、亡霊が七歳の娘の口を借りて訴えたとの噂を機に調べを進め、遺骨を発見して犯人を拘束し、神明のごとしと評された。中政院判官を経て至正八年(1348年)監察御史に拝され、太尉阿斉拉の欺罔の罪を弾劾し、明埒棟阿・阿哩雅・伊嚕布哈らを陛下不倶戴天の讐と論じ、宗室嘉王・郯王一族を殺害した巴延の一族の処断と、権姦に阿附する伯勒斉爾布哈らの遠流を求めた。当時災異が頻発し盗賊が蜂起する中、藩鎮の禍を招くと警鐘を鳴らした。

至正の十禍論

毛貴が山東を陥れた際、楨は十禍の疏を上奏した。根本の禍六(大臣を軽んじる、権綱を解く、安逸に流れる、言路を塞ぐ、人心を離す、刑獄を濫用する)と、征討の禍四(調度を慎まず、衆策を用いず、賞罰を明らかにせず、将帥を選ばぬこと)を挙げ、特に「陛下は盛年で大統を継ぎながら艱難を予防せず、寛仁恭倹は初心に及ばない」「天下は多事、海内は不寧、天道は変常、民情は保ち難い」と痛切に諫め、将帥の失律や河南の荒廃、白蓮教徒の潁上の乱の脅威を指摘した。疏は取り上げられず、権臣に憎まれた。二十一年(1361年)僉山南道粛政亷訪司事に任じられ、中書参知政事の額森布哈、枢密院副使の托克托穆爾、治書侍御史の鈕鈕の弄権誤国の罪を弾劾したが、これも報われなかった。当時、博羅特穆爾は大同に、察罕特穆爾は洛陽に駐屯し、毛貴は山東を制して京畿に迫っていたが、二将は私闘に明け暮れ賊討伐を怠っていた。朝廷が二人に和解を命じても進軍せず、楨は三人の貪懦庸鄙を非難し急ぎ誅すべきと訴えたが、これも黙殺された。楨は「天下事不可為(もはや天下のことは為す術がない)」と嘆いて辞去し、河中安邑の山谷に隠棲した。

庫庫特穆爾への書

二十四年(1364年)博囉特穆爾が京師を犯し皇太子が冀寧に出た際、朝廷は賛善・翰林学士に任じたが起たなかった。庫庫特穆爾が皇太子を輔けて博囉特穆爾を討とうとした際、皇太子の命で使者を遣り時事を尋ねたところ、楨は書を返して「燕趙斉魯の地、大河の内外、長淮の南北はことごとく荒廃し、関陝の地も残る所わずかである」と情勢を憂い、江左・湘漢荊楚川蜀の割拠勢力の伺う隙を警告し、「保君父・扶社稷・衛生霊」の三大義を説いた。衛出公が父を父とせず沙丘の変を招いた例、唐の粛宗が邪謀に惑わされ霊武の簒奪に至った例を引き、天が廃するものは驟かにはせず、寵楽に溺れる心こそ天罰の兆しであると諭した。庫庫特穆爾はこの説を深く納れて事を成し、楨はその三年後に没した。