元史卷一百八十五 列傳第七十二 葢苗
出自と地方官
葢苗は字を耘夫といい、大名元城の人。幼くして聡敏で学を好み、延祐五年(1318年)進士に及第し済寧路単州判官に任じられた。滞囚の裁決を上奏で促し、飢饉に際して官の食糧を戸部に求め、糠餅を示して庶民の窮状を訴え賑済を実現させた。貸し出した官粟の返済を民に代わって肩代わりし、館陶倉への運搬の負担軽減にも成果を上げた。
諫臣として
御史台掾を経て山東亷訪司経歴、礼部主事、江南行台監察御史を歴任し、武備の充実など時務に関する建言を行った。天暦初年、文宗が建康の潜邸に壮麗な仏寺を建てるため民居七十余戸を毀した際、封事を上奏して「民を使うに時を以てし、臣を使うに礼を以てする」のが古の道であると諫め、御史大夫は督役を免れた。文宗が護国仁王寺で舟遊びをした際にも、辺境不穏の折の逸遊を諫めて称賛を得た。太禧宗禋院都事として河南視察を命じられ、河口の淤塞が中原の大患になると上言したが都水監はこれを難じ実現しなかった。
地方官としての諫言と晩年
重紀至元初年(1335年)亳州知州となり、学宮を修め、豪強の田地占有事件を裁いた。左司都事に転じたが在職わずか十八日で数百件を裁決、母の喪に服した。至正二年(1342年)戸部郎中、御史台都事を経て御史大夫の私的な人事要求を拒んだ。山東亷訪副使として益都・淄萊の金鉱を巡る民への不当な課税の弊を廃止させた。戸部侍郎、刑部尚書として、盗殺された河南省憲官の事件で赦を経て再び連坐処刑しようとする動きに強く反対し、これを止めさせた。山東亷訪使として救荒弭盗十二事を上奏し、宣慰使の不法を弾劾し、自らの職田収公にも動じず「年荒れ民困窮する折に己を肥やせようか」と拒んだ。
参議中書省事、陝西行台侍御史、陝西行省参知政事、治書侍御史、侍御史、中書参知政事を歴任し、大臣が両京の馳道拡張のため民田廬を毀そうとした議を「創建以来隘くなってはいない」と論破して阻止した。宿衛士を悉く郡長官に転出させ養貧に充てる案にも「郡長官は民を治める職であり養貧の地ではない」と反対した。角觝師への鈔一万貫の褒賞にも「飢饉の中で戯れの功に重賞を与えるのか」と諫めた。四川亷訪司僉事の際は宰臣の不当な要求を法司に付すよう主張し、時の宰相と対立して江南行台御史中丞に転出したが、致仕後も再び甘粛行省左丞に強いて起用され、西土諸王への恩賚制度や糧鈔兼給を建言し朝廷はこれに従った。陝西行御史台中丞に遷ったが数日で辞意を上奏し帰郷し、翌年五十八歳で没した。攄誠賛治功臣中書左丞上護軍を贈られ魏国公に追封、諡は文献。学術は淳正で孝友に篤く、義田を置いて宗族を養い、平生は謙虚だが事に臨めば敢言し古の遺直の風があったと評された。