元史卷一百八十五 列傳第七十二 李稷

出自と経歴

李稷は字を孟豳といい、滕州の人。八歳で経史を記誦する才があり、父の任地で名進士に師事し春秋を修めた。泰定四年(1327年)進士に及第し淇州判官となり、大飢饉に際して朝廷に訴えて賑済を行った。海陵県丞では民の賭博者を疑い弓兵を率いて捕らえ、盗みの犯人一味を検挙した。翰林国史院編修官、御史台照磨を経て至正初年に江南行台監察御史となり、都事、さらに監察御史に復して宦官の高龍卜の不法を弾劾し流罪とした。

中央官としての建言

御史の封事は御前で開封すべきこと、言事官の登用促進、殿中侍御史・給事中・起居注の人選厳正化などを建言した。護聖寺の火災修復の大役を旱害・戦乱を理由に諫めて中止させ、県尹の選任は省選に帰すべきこと、茶塩鉄課の責任は佐弐に分担させるべきことなどを上言し、帝はこれをすべて容れた。中書左司都事、戸部尚書を経て、十一年(1351年)中原の租税を検地して増税しようとする議論に対し「妖冦が蜂起する中で民を追い立てるのは民を盗賊に追いやるようなものだ」と反対した。参議中書省事、治書侍御史として丞相トクトの徐州出征に従軍した。侍御史、中書参知政事、枢密副使、御史中丞を歴任し栄禄大夫に加官された。

晩年

十九年(1359年)母の喪に服し、二度陝西行省左丞・枢密副使に起用されようとしたが服喪を貫いた。喪明け後は大都路総管兼大興府尹、副詹事を経て、二十四年(1364年)陝西行台中丞となるはずが赴任前に山東亷訪使に改められ、病を得て致仕し帰京、六十一歳で没した。忠を尽くし勤勉恭謙、人と交わるに誠を以てし、殊に郷里や友人の遺孤を厚く扶助した。二十年にわたり中央・地方の要職を歴任し瑕疵なく終えた名卿と評された。