元史卷一百八十五 列傳第七十二 韓鏞

出自と地方官

韓鏞は字を伯高といい、済南の人。延祐五年(1318年)進士に及第し翰林国史院編修官、集賢都事を経て泰定四年(1327年)国子博士に転じ、監察御史に拝された。当時進士出身の官が少なく吏出身が多かった中、吏出身の傅巖起を吏部尚書に任じようとした帝に対し、官位の順序に反すると諫言し取りやめさせた。天暦元年(1328年)浙西亷訪司僉事となり奸暴を糾し、烏程県尹の干文𫝊の治績を諸県第一と推挙した。江浙財賦副総管に転じ、至順元年(1330年)国子司業、南行台治書侍御史を歴任した。

弾劾と饒州の治績

順帝初年、宣徽・枢密院の僉事を経て至正元年(1341年)翰林侍講学士、続いて侍御史に拝されたが、剛直さゆえに疎まれ贓私の誣告を受け罷免された。五年(1345年)台臣がその誣告を晴らし参議中書省事に復した。七年(1347年)朝廷が守令の人選を重視する中、参知政事の魏中立の推薦により饒州路総管に特任された。妖を祀る覚山廟を廃し、境内の淫祠を毀して民を教化し、五経師を置いて学問を興した。使者の接待を質素にし、綱紀の乱れを正した。十年(1350年)中書参知政事に拝されたが、十一年(1351年)丞相トクトの下で龔伯璲らが権を握る中、地方統治の才は評価されても中央での重用は見送られ、甘粛行省参知政事に出された。トクト失脚の際、多くの者が誅されたが鏞は難を免れ、西行台中丞に遷り任地で没した。