元史卷一百八十五 列傳第七十二 干文𫝊
出自と生い立ち
干文𫝊は字を寿道といい、平江の人。祖の宗顕は宋の承信郎、父の雷龍は郷貢進士で、武官の家系から文治へ転じた家であった。文𫝊は少くして学を好み、十歳で文章を作り、若くして名声を得た。挙により呉県・金壇県の学教諭、饒州慈湖書院山長を務め、仁宗の詔により延祐二年(1315年)乙科進士に及第、同知昌国州事に任じられた。
地方官の治績
長洲・烏程両県尹、婺源知州、呉江州知州を歴任し、いずれも善政を敷いた。昌国では海島の民を恩信で懐柔し、強愎な長官を推誠を以て屈服させた。塩場官の虐政から民を救い、助役法(民田百畝ごとに三畝を官に納め役の助けとする)を実施し、豪家に田を出させて中人の家の負担を軽くした。烏程では張甲の妻王氏が夫の妾の子を殺して隠した事件を、乳を吸わせて真相を見抜き解決した。丹徒県の兄弟による姉殺害事件では罪の軽重を見極め、首謀者のみを死刑とした。婺源の陋俗(婚約の不履行、喪の放置)を礼で訓導して改めさせ、朱熹の故宅を占有していた豪民から取り戻して祠を建てさせた。娼婦であった富民江丙の妻張氏が前妻の子を虐待の末に殺害した事件も摘発し法に照らして処断した。
晩年
至正三年(1343年)宋史修纂に召され、功により集賢待制に進んだが、まもなく嘉議大夫礼部尚書として致仕し、七十八歳で没した。体格立派で識量広く、後進を引き立てることを喜び、江浙・江西の郷試を主宰して多くの人材を輩出した。文章は雅正を旨とし浮華を避け、とりわけ政事に長じていた。